孔子の論語 子路第十三の二十二 其の徳を恒にせざれば、或いはこれに羞を承めん

孔子の論語の翻訳335回目、子路第十三の二十二でござる。

漢文
子曰、南人有言、曰、人而無恆、不可以作巫醫、善夫、不恆其徳、或承之羞、子曰、不占而已矣。

書き下し文
子曰わく、南人(なんじん)、言えること有り。曰わく、人にして恒(つね)なくんば、以(もっ)て巫医(ふい)を作(な)すべからずと。善いかな。其の徳を恒にせざれば、或(ある)いはこれに羞(はじ)を承(すす)めん。子曰わく、占(うらな)わざるのみ。

英訳文
Confucius said, “A proverb in the south says, ‘A person without strong belief cannot become a fortune-teller or a doctor.’ I agree with it.” They says, ‘If you do not always have belief, you will be humiliated.’ Confucius said, “It is not fortune-telling. It is fact.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「南方のことわざに、”変わらぬ信念を持たぬ者は、巫覡(ふげき:まじない師や巫女のようなもの)や医者にはなれない” というのがあるが、私もそう思う。」
また、”徳を常に心に持っていなければ、いつか辱めを受ける” ということわざに関して、
「この言葉は占いとか予測とかではなく、間違いの無い事実だ。」
とおっしゃいました。

Translated by へいはちろう

巫(ふ)は女性のまじない師=巫女で、覡(げき)は男性のまじない師でござる。どうしてまじない師と医者なのかというと当時はまだ医術が発達しておらず、やる事はまじない程度のものだったので両者とも孔子以前の儒者(簡単にいえば葬儀屋)と同じで下層階級の仕事とみなされていたからでござる。

孔子の母親の顔徴在はこの儒者階層の出身者で、幼い頃の孔子は母親や親戚に習ったであろう礼法を真似て遊んだそうでござる。こうして下層階級の礼法を学んで育った孔子は成人して上流階級の礼法も学び、周の都へ留学して宮廷の礼法も学んで礼学の第一人者となるのでござる。そして古今の礼法をまとめた上で怪しげなまじないを排し、全ての礼法に通じる基本原則を先祖や家族に対する孝だと見抜き、そこから生まれる社会道徳を仁として哲学にまで昇華した結果、現在でいう儒学が成立するのでござる。

「南方の」という言葉に孔子の南方文化に対する差別意識が含まれているのでござるが、さらに巫覡や医者といった孔子の目指すものとは違う非文化的伝統を守る者たちでさえ信念を貫くという点に感心したのでござろう。

子路第十三の英訳をまとめて読みたい御仁は本サイトの論語 子路第十三を英訳を見て下され。

孔子の論語 子路第十三の二十一 狂者は進みて取り、狷者は為さざる所あり

孔子の論語の翻訳334回目、子路第十三の二十一でござる。

漢文
子曰、不得中行而與之、必也狂狷乎、狂者進取、狷者有所不爲也。

書き下し文
子曰わく、中行(ちゅうこう)を得てこれに与(くみ)せずんば、必ずや狂狷(きょうけん)か。狂者(きょうしゃ)は進みて取り、狷者(けんしゃ)は為さざる所あり。

英訳文
Confucius said, “If you cannot make friends with a person of the moderation, make friends with an idealist or a scrupulous person. An idealist adopts good deeds readily. A scrupulous person does not wrong.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「もし中庸の徳を心得た人物と交際ができなければ、狂者(きょうしゃ:理想家)か狷者(けんしゃ:頑固者)と交際すると良い。狂者は進んで善い事を受け入れるし、狷者は悪い事をしないからだ。」

Translated by へいはちろう

狂者は言うことばかり大きくて行動が伴わない人の事で、狷者は失敗をおそれるあまり何もできない人の事でござる。両方とも字にケモノヘンが含まれているとおり、本来は良い意味の言葉ではござらん。どちらも世間一般の感覚から外れた変わり者といった所でござろうか。

しかし孔子は世渡り上手ですぐ他人に迎合する様な人間こそ徳を乱すと考えて (郷原は徳の賊なり – 陽貨第十七の十三) 、それよりは例え世間からは理解されなくとも、大きな理想を追い求める狂者や自分の信念を頑固に守る狷者の方が良いと考えたのでござる。

逆説的に言えば、中庸の徳というのは世の中や他人に迎合するという意味ではないと言う事なのでござるが、自分で両者を区別するとなると難しくなってくるでござるな。

子路第十三の英訳をまとめて読みたい御仁は本サイトの論語 子路第十三を英訳を見て下され。

孔子の論語 子路第十三の二十 四方に使いして君命を辱めざるは、士と謂うべし

孔子の論語の翻訳333回目、子路第十三の二十でござる。

漢文
子貢問曰、何如斯可謂之士矣、子曰、行己有恥、使於四方不辱君命、可謂士矣、曰、敢問其次、曰、宗族稱孝焉、郷黨稱弟焉、曰、敢問其次、曰、言必信、行必果、硜硜然小人也、抑亦可以爲次矣、曰、今之從政者何如、子曰、噫、斗筲之人、何足算也。

書き下し文
子貢(しこう)問いて曰わく、何如(いか)なるか斯(こ)れこれを士(し)と謂(い)うべき。子曰わく、己を行うに恥あり、四方に使いして君命を辱(はずかし)めざるは、士と謂うべし。曰わく、敢(あ)えて其の次を問う。曰わく、宗族(そうぞく)孝を称(しょう)し、郷党(きょうとう)弟を称す。曰わく、敢えて其の次を問う。曰わく、言(げん)必ず信、行(こう)必ず果(か)、硜硜然(こうこうぜん)たる小人なるかな。抑々(そもそも)亦(また)以(もっ)て次ぎと為すべし。曰わく、今の政(まつりごと)に従う者は如何(いかん)。子の曰わく、噫(ああ)、斗筲(としょう)の人、何んぞ算(かぞ)うるに足らん。

英訳文
Zi Gong asked, “What sort of person is called ‘a good officer’?” Confucius replied, “If he has a sense of shame and never disgrace his lord’s honor when he is sent on a mission, the person can be called ‘a good officer’.” Zi Gong asked, “May I ask a type of the next best person?” Confucius replied, “His family praise his filial piety and his villagers praise his modesty.” Zi Gong asked, “May I ask a type of the next best person?” Confucius replied, “His words are honest and His acts are decisive. This sort of person can be also stubborn. But he can be called ‘a good officer’.” Zi Gong asked, “How about recent officers who engage in politics?” Confucius replied, “You mean those narrow-minded people? They are not worth counting.”

現代語訳
子貢(しこう)が尋ねました、
「どんな人物ならば士人と呼べるでしょうか?」
孔子は、
「恥を知り、主君の命令で他国に使いに行った時に主君の名誉を傷つけるようなことなく立派に振舞うことができれば、士人として十分だろう。」
と答えられました。子貢がさらに、
「よろしければ次善はどのような人物か教えてください。」
と尋ねると、孔子は、
「家族親戚から孝行者とほめられ、地元の人々から悌順だとほめられるような人物だ。」
と答えられました。子貢がさらに、
「よろしければ次善はどのような人物か教えてください。」
と尋ねると、孔子は、
「言葉には嘘が無く、行動は果断で最後までやり通す。このような人間は下手をするとつまらない頑固者になりかねないが、士人と呼べるだろう。」
と答えられました。子貢がさらに、
「近頃政治に携わっている人々はどうでしょうか?」
と尋ねると、孔子は、
「あの偏狭な人々かね?彼らは数のうちに入らないな。」
と答えられました。

Translated by へいはちろう

子貢(しこう:姓は端木、名は賜、字は子貢。詳細は公冶長第五の九に。)

上から順に、国家のために尽くす人間、郷里家族のために尽くす人間、自分の信念を貫く人間、という感じでござるな。

子路第十三の英訳をまとめて読みたい御仁は本サイトの論語 子路第十三を英訳を見て下され。

孔子の論語 子路第十三の十九 居処は恭に、事を執りて敬に、人に与りて忠なるべし

孔子の論語の翻訳332回目、子路第十三の十九でござる。

漢文
樊遅問仁。子曰、居處恭、執事敬、與人忠、雖之夷狄、不可棄也。

書き下し文
樊遅(はんち)、仁を問う。子曰わく、居処(きょしょ)は恭(きょう)に、事(こと)を執(と)りて敬に、人に与(まじわ)りて忠なること、夷狄(いてき)に之(ゆ)くと雖(いえど)も、棄(す)つるべからざるなり。

英訳文
Fan Chi asked about benevolence. Confucius replied, “Be humble at home. Be prudent at work. Be faithful to the people. You must follow these principles even in a savage land.”

現代語訳
樊遅(はんち)が仁について尋ねました。孔子は、
「家では恭しく、仕事では慎重に、人々に対しては誠実に振る舞いなさい。これらは例え未開の地へ行ったとしても忘れてはならない事だ。」
と答えられました。

Translated by へいはちろう

樊遅(はんち:姓は樊、名は須、字は子遅。孔子の弟子の一人。為政第二の五では孔子の御者をしている。)

言葉としては実に簡単でござるが、実行するのはとても難しい事でござるな。

子路第十三の英訳をまとめて読みたい御仁は本サイトの論語 子路第十三を英訳を見て下され。

孔子の論語 子路第十三の十八 父は子の為めに隠し、子は父の為に隠す、直きこと其の内に在り

孔子の論語の翻訳331回目、子路第十三の十八でござる。

漢文
葉公語孔子曰、吾黨有直躬者、其父攘羊、而子證之、孔子曰、吾黨之直者異於是、父爲子隱、子爲父隱、直在其中矣。

書き下し文
葉公(しょうこう)、孔子に語りて曰わく、吾(わ)が党に直躬(ちょくきゅう)なる者あり。其の父、羊を攘(ぬす)みて。子これを証す。孔子曰わく、吾が党の直(なお)き者は是れに異なり。父は子の為めに隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の内に在り。

英訳文
Magistrate of She said to Confucius, “There is a very honest person in our village. When his father stole sheep, he prosecuted his own father.” Confucius said, “In our village, honesty is different from yours. A father defends his children and Children defend their father. I think this is honesty.”

現代語訳
葉県(しょうけん)の長官が孔子に言いました、
「私の村にはとても正直な者がいます。彼の父親が羊を盗んだとき、自らの父親を訴えたのです。」
孔子はこれを聞いて、
「私の村の正直というのはそれとは違います。父は子のために罪を隠し、子は父のために罪を隠します。本当の正直とはその心の中にあるものです。」
とおっしゃいました。

Translated by へいはちろう

葉公(しょうこう:葉公子高とも言う。氏は沈、名は諸梁、字は子高。楚の葉県の長官。「葉公好龍(しょうこうりゅうをこのむ)」の故事でも知られ小人という評価をされがちではあるが、春秋左氏伝によると白公の乱を平定した功績により楚恵王から令尹(宰相)と司馬(軍事長官)に任じられて文武の大権を得ながらも、それらの役職を他者に譲りわたして葉公の地位にとどまるなど仁義に厚く民衆に慕われる名将としての逸話も残っている。)

今回の文については賛否両論あるのではないでござろうか、人の物を盗んではいけないというのは人類普遍の社会正義の一つでござる。親孝行や家族愛も人類普遍の倫理徳目だとはいえ、家族のために犯罪を見過ごしてもよいというのは中々すぐには納得できないものでござる。

しかし儒学の倫理観の根本は孝(家族愛)であり、その孝をもって家族が正しく生きられるように支えあうのが基本なのでござる。現代の個人主義とは違って自分だけが正直者になろうとしても許されないのでござるな。

これに対し法家の韓非子は五蠹篇でこれと同じ直躬のエピソードを挙げ、孔子の考えを寓話によって否定した後で、「公」と「私」の概念はその文字の成立から相反しており決して両立しないという様な趣旨の意見を述べているでござる。

ちなみに現代日本の法律では刑法第105条に「前2条の罪(第103条:犯人蔵匿等、第104条:証拠隠滅等) については、犯人又は逃走した者の親族がこれらの者の利益のために犯したときは、その刑を免除することができる。」とあり、親族による犯人蔵匿や証拠隠滅の罪に対しては裁判所の裁量によって刑が免除されうるという規定があるでござる。さらに昭和22年に行われた刑法改正以前だとこれらは不可罰、解りやすく言い換えれば戦前戦中の刑法では、親族が犯人を匿ったりその証拠を隠滅してもその行為が罪に問われる事はなかったみたいでござるな。

子路第十三の英訳をまとめて読みたい御仁は本サイトの論語 子路第十三を英訳を見て下され。