論語」カテゴリーアーカイブ

孔子の論語 公冶長第五の二十 季文子、三たび思いて而る後に行う

孔子の論語の翻訳112回目、公冶長第五の二十でござる。

漢文
季文子三思而後行、子聞之曰、再思斯可矣。

書き下し文
季文子(きぶんし)、三たび思いて而(しか)る後に行う。子、これを聞きて曰わく、再(ふたた)びせば斯(こ)れ可なり。

英訳文
Ji Wen Zi always thought matters over three times before practicing. Confucius heard this and said, “Twice would be enough.”

現代語訳
季文子(きぶんし)はいつも物事を三度考えてから実行に移した。孔子はこれを聞いて、
「二度で十分だろう。」
とおっしゃいました。

Translated by へいはちろう

季文子(きぶんし:姓は姫、氏は季孫、名は行父、文は諡(おくりな)。魯の宰相。宣公・ 成公・襄公の三代の宰相を務めながら暮らしぶりは質素であった。ある時仲孫它(ちゅうそんた)に「宰相ともあろうお方があまりに質素な暮らしをしていると民からケチと侮られ国家のためになりません。」と言われ、「民をみると彼らの父兄で粗衣粗食の者が多くいるので、 私は派手にしないのです。民が粗衣粗食なのに、宰相である私が豪華な暮らしをして国家の華とするとは聞いたことがありません。」と答えた。自分の間違いに気づいた仲孫它は自らも質素な暮らしを実践し、季文子は「過ちを反省して改める事が出来る人は、人の上に立つべきである。」と言って仲孫它を大夫に取り立てた。)

しかし賢臣というものは尽きぬものでござるな、もちろん佞臣(ねいしん)も枚挙にいとまがないのでござるが。孔子は春秋の世の乱れを仁礼の道徳によって秩序を保とうとしたのでござるが、この後さらに世は乱れ戦国~漢楚の戦い~匈奴の侵入・呉楚七国の乱と中華に平和が訪れるまでには多くの時間を要した事は多くを語る必要は無いでござるな。

漢は武帝の時代にようやく安定し儒学を国教と定め五経博士がおかれて、しばらくは平安が続くのでござるが、後漢末期には儒学の退廃によって再び戦乱の時代が幕を開けるのでござる。

孟子は「天は人民を通して天命を下す(天命説)」として民衆を最も重んじたのでござるが、まさに然りでござるな。おそらく孟子は季文子を仁者と認めたでござろう。

公冶長第五の英訳をまとめて読みたい御仁は本サイトの孔子の論語 公冶長第五を英訳を見て下され。

孔子の論語 公冶長第五の十九 令尹子文、三たび仕えて令尹と為れども、喜ぶ色無し

孔子の論語の翻訳111回目、公冶長第五の十九でござる。

漢文
子張問曰、令尹子文、三仕爲令尹、無喜色、三已之、無慍色、舊令尹之政、必以告新令尹、何如也、子曰、忠矣、曰、仁矣乎、曰、未知、焉得仁、崔子弑齊君、 陳文子有馬十乘、棄而違之、至於他邦、則曰、猶吾大夫崔子也、違之、至一邦、則叉曰、猶吾大夫崔子也、違之、何如、子曰、清矣、曰、仁矣乎、曰、未知、焉 得仁。

書き下し文
子張(しちょう)問うて曰く、令尹(れいいん)子文(しぶん)、三たび仕えて令尹と為(な)れども、喜ぶ色(いろ)無し。三たび巳(や)められども、慍(うら)む色無し、旧令尹の政(まつりごと)、必 ず以(もっ)て新令尹に告(つ)ぐ。如何(いかん)。子曰わく、忠(ちゅう)なり。曰く仁(じ ん)なりや。曰わく、未(いま)だ知らず、焉(いずく)んぞ仁なるを得ん。崔子(さいし)斉の君(きみ)を弑(し い)す。陳文子(ちんぶんし)、馬(うま)十乗(じゅうじょう)有り、棄(す)てて之(これ)を違(さ)る。、他邦(たほう)に至(いた)りて則 (すなわ)ち曰く、猶(なお)吾(わ)が大夫(たいふ)崔子(さいし)がごときなりと。之を違る。一邦(いっぽう)に至り て則ち又(また)曰く、猶吾が大夫崔子がごときなりと。之を違る。如何。 子曰わく、清(せい)なり。曰く仁なりや。曰わく、未だ知らず、焉んぞ仁な るを得ん。

英訳文
Zi Zhang asked Confucius, “Zi Wen didn’t express his delight when he was appointed the minister three times. And he didn’t express discontent when he was dismissed from the minister three times. He took over duties from his predecessor and handed over them to his successor. How about him?” Confucius replied, “He is faithful.” Zi Zhang asked, “Isn’t he benevolent?” Confucius replied, “I don’t know whether he is benevolent or not.” Zi Zhang asked, “Chen Wen Zi left Qi without his fortune when Cui Zi murdered Marquis Qi. Then he visited two country and left them because there were some people like Cui Zi. How about him?” Confucius replied, “He is honest.” Zi Zhang asked, “Isn’t he benevolent?” Confucius replied, “I don’t know whether he is benevolent or not.”

現代語訳
子張(しちょう)が孔子に尋ねました、
「楚の宰相であった子文は三度宰相に任命されましたが特に喜んだ顔色を見せず、三度宰相を罷免されましたが特に不満も表さなかったそうです。また彼は前任の宰相の政務をきちんと後任の宰相に引継ぎました。彼はいかがでしょう?」
孔子は、
「忠実な人物だ。」
と答えられ、子張がさらに、
「仁者とは言えませんか?」
と尋ねると孔子は、
「仁者と言えるかは解らないな。」
と答えられました。次ぎに子張は、
「斉の崔子(さいし)が主君を殺した時、陳文子(ちんぶんし)は馬車十台もの財産を持ちながらそれらを捨てて斉を去りました。そして他国へ訪れた時にも、”この国にも崔子の様な輩が居る” と言ってさらに二度それらの国を去りました。彼はいかがでしょう?」
と尋ね、孔子は、
「清廉な人物だ。」
と答えられ、子張がさらに、
「仁者とは言えませんか?」
と尋ねると孔子は、
「仁者と言えるかは解らないな。」
と答えられました。
Translated by へいはちろう

子張(しちょう:姓は顓孫、名は師、字は子張。孔子の弟子の一人。先進第十一の十六では孔子に”過ぎたるはなお及ばざる如しの過ぎたる方”といわれている、ちなみに及ばざる方は子夏。また「師は辟(へき:うわべばかり)」とも言われている。同門の曾子からは、「立派ではあるが、ともに仁をなすことは難しい」、子遊からは「人には出来ない事が出来るが、まだ仁には至っていない」と評されている。)

子文(しぶん:姓は羋、氏は闘、名は穀於菟、字は子文。楚の宰相。両親は楚の公子の闘伯比(とうはくひ)と鄖公の娘であったが密通で生まれたため母に雲夢の沢の中に捨てられ虎の乳を飲んで育てられた。その後沢に狩りで訪れた鄖公に見つけられ二人は結婚を許された。 楚の人は乳を縠、虎を於菟と言ったので、闘縠於菟と名づけられたという。楚において宰相に抜擢されると私財を国庫に差し出して楚の財政を救った。楚の成王が食べるものにも困る子文の暮らしを案じて子文に俸禄を出そうとする度に宰相の位を捨てて下野し、成王が俸禄を出すのをやめると戻って宰相に復命した。何度か繰り返した後、ついに成王は子文に俸禄を出す事を諦め、子文が登朝するごとに肉の干物一束と、乾飯一籠を用意して贈った。)

陳文子(ちんぶんし:田須無、陳須無、田文子とも呼ばれる。田氏斉の祖先。)

崔子(さいし:姓は姜、氏は崔、名は杼、諡は武。斉の恵公・霊公・荘公・景公の時代に渡って専権を奮い、荘公を私的な恨みから殺したが、自分の子供の世継ぎ問題に乗じられて妻子を殺され自身は首をくくって死んだ。)

今回は文章の長さもさる事ながら登場人物が多かったでござるな、ちなみに孔子は陽貨第十七の六で子張に対して「恭寛信敏恵の五つを実践できれば仁と言える」と言っているでござる。すなわち「恭しい事・寛大である事・誠実である事・鋭敏である事・恵み深い事」の五つでござる。

公冶長第五の英訳をまとめて読みたい御仁は本サイトの論語 公冶長第五を英訳を見て下され。

孔子の論語 公冶長第五の十八 臧文仲、蔡を居く

孔子の論語の翻訳110回目、公冶長第五の十八でござる。

漢文
子曰、臧文仲居蔡、山節藻梲、何如其知也。

書き下し文
子曰わく、臧文仲(ぞうぶんちゅう)、蔡(さい)を居(お)く。節(せつ)を山にし梲(せつ)を藻(も)にす、何如(いかん)ぞ其(そ)れ知(ち)ならん。

英訳文
Confucius said, “Zang Wen Zhong had a carapace of a tortoise from Cai, even though he was a mere vassal. Furthermore, he carved a mountain pattern on capitals of pillars and a algae pattern on short pillars above beams, as if he were an emperor. He was far from a wise man.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「臧文仲(ぞうぶんちゅう)は諸侯の一家臣の身でありながら亀卜(きぼく)用の甲羅を所有していた。さらに柱の桝形には山の模様を、棟木を支える卯建(うだつ)には藻の模様を彫刻していた(これらは天子のみに許されるのに)。どうして彼が智者と言えるだろうか。」

Translated by へいはちろう

臧文仲(ぞうぶんちゅう:姓は臧孫、名は辰、字は仲、文は諡(おくりな)。魯の宰相。)

八佾第三の二十二で管仲を批判したのと同じ理由でござる、たとえ後世に残る功績をたてても分際を弁えぬ行動をすると智者では無い、つまり孔子の言う「智」とは仁礼に基づき善悪を区別する知恵の事を指すのでござる。管仲は憲問第十四でフォローされているのでござるが、臧文仲は衛霊公第十五の十四でも「位を盗む者(身分に応じた功績の無い者)」と批判しているでござる。

公冶長第五の英訳をまとめて読みたい御仁は本サイトの論語 公冶長第五を英訳を見て下され。

孔子の論語 公冶長第五の十七 晏平仲、善く人と交わる、久しくしてこれを敬す

孔子の論語の翻訳109回目、公冶長第五の十七でござる。

漢文
子曰、晏平仲善與人交、久而人敬之。

書き下し文
子曰わく、晏平仲(あんぺいちゅう)、善く人と交わる。久しくしてこれを敬す。

英訳文
Confucius said, “Yan Ping Zhong knew how to associate with people very well. He also behaved respectfully toward his old friends as well.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「晏平仲(あんぺいちゅう)は人付き合いの要領を心得ていた。長い付き合いの友人に対しても敬意を払ったのだから。」

Translated by へいはちろう

晏平仲(あんぺいちゅう:斉の名臣「晏嬰(あんえい)」の事。姓は晏、名は嬰、字は仲、平は諡(おくりな)。晏子(あんし)とも呼ばれ、言行録である晏子春秋が死後に編纂される。斉の管仲と共に春秋時代の代表的な名宰相の一人。史記の作者である司馬遷は「晏嬰の時代に生まれていたら彼の御者になりたい」とまで言って尊敬している。)

さて後世の人々に晏子(あんし)と呼ばれて尊敬される晏嬰でござるが、この人物は孔子の人生に大きな影響を与えた人物の一人でござる。

孔子が理想を叶えんと大国である斉を訪れて景公に仕官しようとした時の事でござる。景公が孔子に政治について尋ねると孔子は「君は君、臣は臣、父は父、子は子としての道をそれぞれ尽くすことが政治の肝要でございます。そして財政に於いてはひたすら倹約に努めなければなりません。」と答え、景公はすっかり感心して孔子に領地を与えて大夫として召抱えようとしたのでござる。しかし晏嬰は景公を諌めて以下の様に言ったそうでござる。

「儒者は滑稽多弁ですから、 そのことばを手本としてはなりません。傲慢不遜で自分の思いのままにふるまうので、低い身分に置くこともなりません。周の王室はすでに衰微し、礼楽も残欠して、久しい年月を経ました。しかるに今、孔子は容儀修飾を盛大にし、登降の礼儀や歩行の節度を煩雑にしています。 これを採用するのは、微賤な細民を救済する急務ではありません」

そして結局景公は孔子を召抱える事をやめたのでござる。当時の斉は晏嬰によって倹約政策が行われていたのでござるが、そこで倹約を説いた孔子の言葉と学説の矛盾を指摘したのでござる。儒学者たちが葬礼を豪華にして国の財産を浪費している事は墨子にも批判されているでござるな。但し晏嬰は孔子個人に対しては敬意を払っており、孔子の政策に対して異論を述べたのでござる。

公冶長第五の英訳をまとめて読みたい御仁は本サイトの論語 公冶長第五を英訳を見て下され。

孔子の論語 公冶長第五の十六 子産を謂わく、君子の道四つ有り

孔子の論語の翻訳108回目、公冶長第五の十六でござる。

漢文
子謂子産、有君子之道四焉、其行己也恭、其事上也敬、其養民也惠、其使民也義。

書き下し文
子、子産(しさん)を謂(い)わく、君子の道四つ有り。其の己(おのれ)を行なうや恭(きょう)、其の上(かみ)に事(つか)うるや敬(けい)、其の民を養うや恵(けい)、其の民を使うや義。

英訳文
Confucius said, “Zi Chan had four virtues. He was reverent, royal, merciful, and reasonable.”

現代語訳
孔子が子産(しさん)についておっしゃいました、
「彼は四つの美徳を備えていた。行いは恭しく、主君に忠実で、民衆には慈愛をそそぎ、民衆を使役する時には道理を重んじた。」

Translated by へいはちろう

子産(しさん:姓は姫、氏は公孫、名は僑、字は子産。鄭の卿(大臣)。斉の管仲などと共に春秋時代の名臣の代表の一人。中国史上で初めての成文法を作った。孔子は子産を非常に尊敬しており、論語の中で度々賞賛している。)

上記の通りこの子産は中国史上で初めての成文法(文章として規定された法律)を制定した人物でござる。それまでは文章として規定されない慣習法や不文法によって統治がなされていたのでござるが、結果として法が恣意的に運用されるのを避けるために青銅の鼎に法文を鋳込んだと伝えられているでござる。

この事がどのくらいすごいかといえば、とてもすごい事でござる。法律が(とくに行政法が)文章として形になっていればこそ、人々は法律と照らし合わせて行政を批判できるのでござる。要するに「政治はお偉い雲の上の人が神さまと相談してやってる訳の解らないもの」で無くしてしまったのでござる。

当然反発は強く、晋の宰相である叔向からは「あなたが生きている間は良いですが、あなたが死んだ後はどうなるのですか。滅んだ国には法律が多いと言いますが、まさしくそれに当てはまるのではないのですか。」と言われ、子産は「不才の身の私には死後の事など解りません。」と答えたそうでござる。そして叔向が亡くなった後に晋もまた成文法を制定したのでござる。

まぁ成文法のメリット・デメリットは法学の本でも読んでもらうとして、徳治主義を主張する孔子が子産を尊敬していたという事は中々に興味深い事でござるな。つまりは徳治や法治などという言葉は孔子にとっては大した価値をもっておらず、その事績が仁に叶っていれば良いという事でござろうか。

公冶長第五の英訳をまとめて読みたい御仁は本サイトの論語 公冶長第五を英訳を見て下され。