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孔子の論語 公冶長第五の十 今吾人に於けるや、其の言を聴きて其の行を観る

孔子の論語の翻訳102回目、公冶長第五の十でござる。

漢文
宰予晝寝、子曰、朽木不可雕也、糞土之牆、不可朽也、於予與何誅、子曰、始吾於人也、聽其言而信其行、今吾於人也、聽其言而觀其行、於予與改是。

書き下し文
宰予(さいよ)、昼寝(ひるい)ぬ。子曰わく、朽木(きゅうぼく)は雕(ほ)るべからず、糞土(ふんど)の牆(かき)は朽(ぬ)るべからず。予(よ)に於(おい)てか何ぞ誅 (せ)めん。子曰わく、始(はじ)め吾(われ)人に於(お)けるや、其(そ)の言(げん)を聴きて其の行(こう)を信ず。今吾人に於けるや、其の言を聴きて其の行を観る。予に於てか是(これ)改(あらた)む。

英訳文
Zai Yu took a nap without learning during the daytime. Confucius said, “We cannot carve on a rotten wood. We cannot make a mud wall with rotten mud. How can I discipline Zai Yu? I believed in their acts by hearing their word at first. Now I watch their acts by hearing their word. Zai Yu’s acts taught me this thing.”

現代語訳
宰予(さいよ)が勉強もしないで昼寝をした。孔子は、
「腐った木を彫る事は出来ない。腐った土で土塀は作れない。どうやって宰予を叱れば良いだろうか? 私は始め人の言葉を聞いてその行動を信じた。しかし今は人の言葉を聞いたらその行動を見守る様になった。宰予のおかげで改めたのだ。」
とおっしゃいました。

Translated by へいはちろう

宰予(さいよ:姓は宰、名は予、字は子我。詳細は八佾第三の二十一に。)

勉強さぼって昼寝をしていたら怒られて当然でござるが、この様に孔子と言う偉人によって叱責された事により後世に汚名を残す事になるとは多少の同情を禁じえないでござるな。

しかしここで孔子の偉業の一つがまた明らかになるのでござる。それは春秋(歴史書)を著し君主に後世の評判と言う手錠をかけた事でござる。君主は権力が強ければ強い程どんな無茶でも出来る。暴虐の限りをつくした君主は歴史に枚挙のいとまが無いのでござるが、どんな暴君でも不老不死とは成れず死後の評判を権力によって縛る事は出来ないのでござる。

もちろん「歴史書とは時の権力者が自分に都合の良い事を書く物」と言う解釈もあるのでござるが、中華大陸においては歴史はすでに「信仰」の領域に達しており、宮刑を受けてまで史記を書いた司馬遷(しばせん)や君主の悪事を公式記録に残して死罪を受けたが記録を断じて書き換えなかった記録官のエピソードなどが伝わっているのでござる。現代で言うジャーナリズムの役割を担っていた訳でござるが、それらに大きな影響を与えたのが孔子でござる。

まぁ長い中国大陸の歴史には他人の評判など全く意に介さない破格の暴君も登場するのでござるが、史記の著者である司馬遷の父であり漢初期の偉大な歴史家・思想家である司馬談(しばだん)が司馬遷に史記を書くように遺言した言葉が以下でござる。

「我らの先祖は周室の太史(天文・祭祀・暦法などを司り記録する重職)であった。その前からも虞夏(殷の前の王朝)の時代に功名をあらわして以来、天文を司って来た。その後中ごろから衰えた。その伝統も私の代で終わるのだろうか?お前がまた太史になったならば、先祖の伝統をついでくれ。天子(武帝)は千歳の皇統をつぎ、泰山で封禅の礼を行っている。それなのに太史である私はその行事に参加することができない。ああ、何たる不名誉。私が死んだらお前は必ず太史になるだろう。太史になったら私が残そうとした事業の事を忘れないでくれ。孝というものは親に仕えるのが初めで、君に仕えるのが中ごろで、身を立てるのが終わりだ。名声を後世までも挙げて、父母の名を後世に残す事は、孝行の中でも大なるものだ。 ~中略~ 孔子は古い礼楽を修め、見捨てられていた学問を復興し、詩経、書経を論じて春秋をつくった。学者はいまに至るまでこれに則っている。その偉業も長い戦乱によって中断してしまっていたが、今漢が興隆して天下は統一されて明主、賢君あり、また忠臣で義に死んだものもある。私は太史でありながら、それらについて評論、記載せず、天下の史文を廃絶してしまったのだ。私はこの事がとても心残りなのだ。どうか私の心中を察してくれ」

こうして司馬遷は涙を流して史書を書き表す事を父に誓い、太史となった。

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孔子の論語 公冶長第五の九 回や一を聞きて以て十を知る、賜や一を聞きて以て二を知る

孔子の論語の翻訳101回目、公冶長第五の九でござる。

漢文
子謂子貢曰、女與囘也孰愈、對曰、賜也何敢望囘、囘也聞一以知十、賜也聞一以知二、子曰、弗如也、吾與女弗如也。

書き下し文
子、子貢(しこう)に謂いて曰わく、女(なんじ)と回(かい)と孰(いず)れか愈(まさ)れる。対(こた)えて曰わく、賜(し)や、何ぞ敢(あえ)て回を望まん。回や一を聞きて以て十を知る。賜や一を聞きて以(もっ)て二を知る。子曰わく、如(し)かざるなり。吾(われ)と女と如かざるなり。

英訳文
Confucius asked Zi Gong, “Which of you and Yan Hui is superior?” Zi Gong replied, “I am inferior to Yan Hui. He can understand whole story at the beginning. I can understand only one fifth of the story at the beginning.” Confucius said, “I’m also inferior to Yan Hui. Both you and I are inferior to Yan Hui.”

現代語訳
孔子が子貢(しこう)に尋ねました、
「お前と顔回(がんかい)とどちらが優れているか?」
子貢は、
「私など彼にとても及びません。彼は一を聞いて十を知る事が出来ますが、私は二を知るくらいがせいぜいです。」
と答え、孔子は、
「そのとおり、私もとても顔回には及ばない。私たちはとても彼には及ばないのだ。」
とおっしゃいました。

Translated by へいはちろう

子貢(しこう:姓は端木、名は賜、字は子貢。孔門十哲の一人。弁舌に優れ弟子の中で最も社会的に成功した。魯及び衛の宰相(政務全てを司る要職)を務め、魯が斉から攻め込まれようとした時には斉・呉・越・晋へ赴き各王を説得して当時の覇者であった呉と斉・晋・越を戦わせた。結果呉は滅び越が覇者となり魯は戦に巻き込まれなかった。史記の貨殖列伝に名を残すほどの商才の持ち主。)

顔回(がんかい:姓は顔、名は回、字は子淵。孔門十哲の一人。出世や名誉を求めず質素な暮らしに甘んじ、ひたすらに孔子の教えを学び実践する生活を送った。孔子は弟子の中で最も顔回を評価していたが、若くして病で死亡する。孔子は彼の死を聞いたとき、「あぁ、天は我を滅ぼせり。」と嘆いたと言う。)

さて「一を聞いて十を知る」の元となった今回の文でござるが、孔子の弟子の中でもこの二人の対比はとても面白いので少し思考を膨らませてみようと思うでござる。

子貢は上記の通り、弁舌に優れた異才でござる。孔子の名が大きすぎるため過小評価されがちでござるが、縦横家顔負けの大活躍で呉越の戦い(呉越同舟・臥薪嘗胆などの原典)に大きな役割を演じているのでござる。当時の孔子及び儒学の名声は子貢の活躍に負う所が大きかったとの評価もあるくらいでござる。しかしそれだけの才能を持ちながら弁舌が巧みすぎる点や実利を得る事に巧み過ぎる点が孔子にとっては残念であったのでござろう。

顔回は上記の通り、ひたすらに孔子の教えの実践を求めた求道者でござる。儒学を興隆させて乱れた世を救わんと重い使命を自らに課して、時には現実社会との摩擦に苦悩していた孔子にとっては、顔回のあり様は理想の人間像に見えた事でござろう。出世や富を求めず多くを語らず、質素な暮らしでひたすらに学問に徹する姿はある意味において老荘思想にも通じる部分があり、既に学問や思想を超える存在でござる。

つまり子貢は儒学の現実社会における有益性を表しており、顔回は儒学の思想的清潔さを代表していて儒学をささえる車の両輪みたいなものでござる。子貢的な人間ばかりでは世の中は実利を求める者ばかりになるし、顔回的な人間ばかりでは世の中に何も益する所が無い。ここへ来てあらためて孔子の偉大さがよく解るのでござる。

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孔子の論語 公冶長第五の八 孟武伯問う、子路仁なりや

孔子の論語の翻訳100回目、公冶長第五の八でござる。

漢文
孟武伯問、子路仁乎、子曰、不知也、叉問、子曰、由也、千乘之國、可使治其賦也、不知其仁也、求也何如、子曰、求也、千室之邑、百乘之家、可使爲之宰也、不知其仁也、赤也何如、子曰、赤也、束帶立於朝、可使與賓客言也、不知其仁也。

書き下し文
孟武伯(もうぶはく)問う、子路(しろ)、仁なりや。子曰わく、知らざるなり。又た問う。子曰わく、由(ゆう)や、千乗(せんじょう)の国、其の賦(ふ)を治めしむべし、其の仁を知らざるなり。求(きゅう)や何如(いかん)。子曰わく、求や、千室(せんしつ)の邑(ゆう)、百乗(ひゃくじょう)の家、これが宰(さい)たらしむべし、其の仁を知らざるなり。赤(せき)や何如。子曰わく、赤や、束帯(そくたい)して朝(ちょう)に立ち、賓客(ひんきゃく)と言わしむべし、其の仁を知らざるなり。

英訳文
Meng Wu Bo asked Confucius, “Is Zi Lu a benevolent person?” Confucius replied, “I don’t know.” Meng Wu Bo asked again and Confucius replied, “Zi Lu can be a military secretary of the country. But I don’t know whether he is benevolent or not.” Meng Wu Bo asked, “What about Ran Qiu?” Confucius replied, “Ran Qiu can be a mayor of a city or a butler of a powerful family. But I don’t know whether he is benevolent or not.” Meng Wu Bo asked, “What about Xi Chi?” Confucius replied, “Xi Chi can be a diplomat in full dress. But I don’t know whether he is benevolent or not.”

現代語訳
孟武伯(もうぶはく)が孔子に
「子路(しろ)は仁者ですか?」
と尋ね、孔子は、
「解りません。」
と答えられました。孟武伯がさらに同じ事を尋ねたので孔子は、
「子路は諸国の軍事長官ならば務まるでしょう。しかし仁者であるかは解りません。」
と答えられました。孟武伯は、
「冉求(ぜんきゅう)は仁者ですか?」
と尋ね、孔子は、
「冉求は街の長官や大貴族の執事ならば務まるでしょう。しかし仁者であるかは解りません。」
と答えられました。さらに孟武伯が、
「子華(しか)は仁者ですか?」
と尋ね、孔子は、
「子華は正装させた上で外交官ならば勤まるでしょう。しかし仁者であるかは解りません。」
と答えられました。

Translated by へいはちろう

孟武伯(もうぶはく:魯の大夫・大臣、魯の実質的支配者である御三家の一人。)

子路(しろ:姓は仲、名は由、字は子路。孔門十哲の一人。詳細は前回の公冶長第五の七に。)

冉求(ぜんきゅう:姓は冉、名は求、字は子有。孔門十哲の一人。詳細は八佾第三の六に。)

子華(しか:姓は公西、名は赤、字は子華。孔子の弟子の一人。裕福な家柄の出身で、雍也第六の四では子華が外交使節として斉に行くとき、冉求が留守を預かる子華の母親に扶持米(年金みたいなもの)をあげて下さいと申し出た。孔子はわずかな量を提示したが、結局冉求は孔子の言った50倍もの米を送った。それを聞いた孔子は「子華は斉に行くとき名馬に乗り豪華な衣服を着て出かけた。施しと言う物は貧しい者に与える物だ、富める物に与える必要は無い。」と言ったという。)

今回は登場人物が多かったでござるな、ちなみに三人とも孔子の言った通りの役職に就いたのでござる。有名な者だけで70名、史記の孔子世家では3000名もいたと言われる孔子の弟子の就職には孔子も随分と骨を折ったでござろうな。ちなみにこの時代に官僚になろうと思ったら貴族に生まれるか、貴族や諸侯に気に入られて登用されるかのどちらかでござるので、各国に強力なコネを持つ孔子にあやかろうと弟子入りした者たちも大勢いたのでござろう。この点は清貧を旨とした老荘思想家や清廉を旨とした墨家たちからも批判されたのでござる。

しかし現実的な政治において理想を実現しようとする孔子の考えでは、儒学者が出世してくれないと困るのでござる。墨子もその点は同じで、身分に関係なく人材を登用せよと「尚賢」論を唱えて下層階級に支持されたのでござる。結局のところ貴族や王族などは儒学の都合のいいところだけを採用し、豪華な儀式と優美な音楽という退廃主義に陥り、そんな儒学を酷く嫌った秦の始皇帝によって中華は統一されて、儒家たちはそのツケを払わされる事(焚書坑儒)になったのでござる。悪いのは孔子では無く、後世の儒家でござるが。

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孔子の論語 公冶長第五の七 桴に乗りて海に浮かばん、我に従わん者は其れ由なるか

孔子の論語の翻訳99回目、公冶長第五の七でござる。

漢文
子曰、道不行、乘桴浮于海、從我者其由也與、子路聞之喜、子曰、由也、好勇過我、無所取材。

書き下し文
子曰わく、道行なわれず、桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん。我に従わん者は、其(そ)れ由(ゆう)なるか。子路(しろ)これを聞きて喜ぶ。子曰わく、由や、勇を好むこと我に過ぎたり。材を取る所なからん。

英訳文
Confucius said, “The country is not in order. I’d rather go abroad on a raft. I would be accompanied by Zi Lu, if I went.” Zi Lu were pleased. Confucius said, “Zi Lu, you are more courageous than me. But how do you get lumber?”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「天下は秩序乱れて私の理想に程遠い、もう筏(いかだ)にのって海外にでもいこうか。もし行くとしたら、私に付いて来るのは子路(しろ)だろうな。」
子路はこれを聞いて喜びました。孔子はさらにおっしゃいました、
「お前の勇気は私以上だが、筏の材料はどうするのだ?」

Translated by へいはちろう

子路(しろ:姓は仲、名は由、字は子路。孔門十哲の一人。弟子の中で一番多く論語に登場する。優等生的な顔回や才気走った子貢とは違い勇を好み軽率な行動も多く度々孔子に窘められているが、孔子は朴訥なその人柄を愛した。史記の孔子世家によると、衛の国で街の代官を務めていたが衛の後継者問題に巻き込まれて戦死した。その後子路の死体が見せしめとして塩辛にされたと聞くと、孔子は家中の塩辛を全て捨てさせ、生涯塩辛を口にしなかったという。)

理想を抱きながらも生きて叶わず不遇な晩年を送った孔子、少々自虐的な冗談を慰めとして言ったのでござろう。筏に乗って海外へなどという仙人みたいな話は老荘思想家が言いそうな事でござる。「何もかも投げ出して彼らの様に引き篭もってしまおうか、それができたら今の悩みなど消え去るだろうに」、そんな孔子の嘆きが聞こえてくるようでござる。

しかし子路は冗談を真面目に受け止めて、苦難を師と共に出来る事を素直に喜ぶ。孔子はそれを見て自分が弱気になっている事に気づいて思う。「あぁ、今ここで私が全てを投げ出したら私を慕ってくれている彼らに申し訳が立たないでは無いか」、そして自らを鼓舞して最後まで冗談として言う、「子路よ、お前は本当に勇敢な人間だ。お前の勇気に比べたら私など取るに足らない。しかし筏の材料が無いからまた今度にしよう」、子路は冗談だとようやく気づいて恥ずかしそうに笑う。孔子と弟子達もそんな子路見てさらに笑顔になるのであった。

とまぁ、以上は拙者の解釈なのでござるがいかがでござろうか?いつも論語の解説の補足として老子や墨子など儒学に批判的な学説を用いる事の多い拙者でござるが、ここで新たに論語と彼らの書物との違いに気づくでござるな。

論語には「人間ドラマ」があるのでござる。論語というとそれだけで堅苦しいイメージを抱かれる人が多かろうと思うのでござるが、それは教養として読むからでござる。孔子や弟子達が我々と同じ人間である事に気づき彼らを真心を持って見るとき、論語は物語として読めるでござろう。

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孔子の論語 公冶長第五の六 吾斯れをこれ未だ信ずること能わず、子説ぶ

孔子の論語の翻訳98回目、公冶長第五の六でござる。

漢文
子使漆雕開仕、對曰、吾斯之未能信、子説。

書き下し文
子、漆雕開(しつちょうかい)をして仕えしむ。対(こた)えて曰わく、吾(われ)斯(こ)れをこれ未だ信ずること能(あた)わず。子説(よろこ)ぶ。

英訳文
Confucius intended to make Qi Diao Kai work for the public. Qi Diao Kai said, “I’m not confident yet.” Confucius was pleased with Qi Diao Kai’s desire to learn.

現代語訳
孔子は漆雕開(しつちょうかい)を仕官させようとしました。漆雕開は、
「私にはまだ公務をこなす自信がありません。」
と答え、孔子はその向学心を喜ばれました。

Translated by へいはちろう

漆雕開(しつちょうかい:姓は漆雕、名は開、字は子開。孔子の弟子の一人。)

今回の文は意見が分かれるところでござろうな、「案ずるより生むが易し」という言葉もあるでござるから。ただここで一応孔子の弁護をすると、孔子の推薦によって公務に就くと言う事はかなり高い役職に就く可能性が高い事を考えねばならないでござる。もともと孔子の弟子となる人物の中には仁礼を学ぶというより、出世や名誉が目的の人々も多くいたはずでござる。

例え話によって想像を働かせて見ようと思うでござる。
貴殿が名門大学の学生だとする、友人はすべからく向学心と功名心に燃え勉学に励んでいる。教授はあなたの学ぶ学問の世界的権威であり、その学問はこれまでに無い最先端の学問でござる。既に卒業した先輩たちは有名な政治家になっており総理大臣になっている人物(子貢)までいる。そんな時に教授から官僚に推薦してやろうと言われた。新人として務めるのでは無く、おそらくはキャリア官僚としていきなり課長あたりから務める事になるだろう。もしかしたら事務次官や国務大臣という可能性すらある。

・・・貴殿はどう答えるでござろうか?
「いままで学んだ事を役立てるチャンスだ!ぜひお願いします。」
「まだまだ学び足りない、却って人々の迷惑になりますので辞退します。」

どちらが良いという訳ではござらんが、孔子が喜んだのは孔子の考える理想の高さを漆雕開が理解していると思ったからでござろう。

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