論語」カテゴリーアーカイブ

孔子の論語 述而第七の二 黙してこれを識し、学びて厭わず、人を誨えて倦まず

孔子の論語の翻訳152回目、述而第七の二でござる。

漢文
子曰、默而識之、學而不厭、誨人不倦、何有於我哉。

書き下し文
子曰わく、黙(もく)してこれを識(しる)し、学びて厭(いと)わず、人を誨(おし)えて倦(う)まず。何か我に有らんや。

英訳文
Confucius said, “To memorize silently, to learn eagerly and to teach without being lazy. These are matters of course for me.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「静かに物事を記憶し、熱心に学び、人に教えて怠らない。これらの事は私にとっては当たり前の事なのだ。」

Translated by へいはちろう

論語の最初の文である学而第一の一に「学びて時にこれを習う、亦(また)説(よろこ)ばしからずや」とあるように、学ぶ事は本来楽しい事なのでござる。よく英語の学習でも「楽しみながら英語を学ぶ」というキャッチフレーズを使っている所があるのでござるが、これは間違いで、

学ぶ事は楽しい事

なのでござる。なんだか卵が先か鶏が先かみたいな話になってしまうのでござるが、この両者には海よりも深い違いがあるので肝に銘じておいて欲しいものでござる。

努力と言うのは自ら楽しんでやる限り、「娯楽」と呼べるものでござる。

楽しんで学ぶ事が出来ないという御仁は、必要にせまられてか高い目標に押しつぶされて目の前の学問の面白さに気づいておられ無いだけなのでござろう。それらは致し方の無い事なので別に非難をする訳ではござらん。

しかし自分の生活にゆとりが出来て、何か時間を持て余して退屈だと思ったときは、何かを学ぶ事以上に楽しいことは無いと拙者は考える次第。

学問でなければ運動するのも良いでござるな。

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孔子の論語 述而第七の一 述べて作らず、信じて古を好む

孔子の論語の翻訳151回目、述而第七の一でござる。

漢文
子曰、述而不作、信而好古、竊比於我老彭。

書き下し文
子曰わく、述べて作らず、信じて古(いにしえ)を好む。竊(ひそ)かに我が老彭(ろうほう)に比す。

英訳文
Confucius said, “I only tell the ancient courtesy, not create. I believe in and love those old good things. I imitate Lao Peng secretly.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「私は古の礼法を言っているだけで、新たに何かを創作した訳じゃない。それら古き良きものを信じて好むだけなのだ。密かに尊敬する老彭(ろうほう)のやり方を真似ている。」

Translated by へいはちろう

老彭(ろうほう:殷の伝説上の賢大夫の彭祖(ほうそ)の事だと言われる。仙道に通じ800年生き、伝説上の聖帝である堯・舜から夏王朝・殷王朝に仕えたと伝えられる。荘子にも名前が登場する長寿の代名詞的人物。また一説によると老子と彭祖の二人の事を指しているという解釈もある。)

孔子の唱えた礼法は周公旦が定めたといわれる周礼を中心に古の礼法を復古させたものでござる。その事について謙遜しておられる訳でござるな。しかしどんな名曲も演奏されなければ人を感動させる事が出来ないように、時代に埋もれた礼法を復古させた孔子の功績はやはり偉大だと言えるのでござる。

西洋のルネッサンスや日本の江戸期など、古いものがかえって新しいものを生み出す原動力になる事はしばしばでござる。温故知新、奥深いでござるな。

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孔子の論語 雍也第六の三十 夫れ仁者は己立たんと欲して人を立て、己達っせんと欲して人を達す

孔子の論語の翻訳150回目、雍也第六の三十でござる。

漢文
子貢曰、如能博施於民、而能濟衆者、何如、可謂仁乎、子曰、何事於仁、必也聖乎、尭舜其猶病諸、夫仁者己欲立而立人、己欲逹而逹人、能近取譬、可謂仁之方也已。

書き下し文
子貢(しこう)曰わく、如(も)し能(よ)く博(ひろ)く民に施して能く衆(しゅう)を済(すく)わば、何如(いかん)。仁と謂(い)うべきか。子曰わく、何(なん)ぞ仁を事とせん。必らずや聖か。尭舜(ぎょうしゅん)も其れ猶(な)お諸(こ)れを病めり。夫(そ)れ仁者は己立たんと欲して人を立て、己達っせんと欲して人を達す。能く近く取りて譬(たと) う。仁の方(みち)と謂うべきのみ。

英訳文
Zi Gong asked, “If someone could make all people wealthy and save them from disasters, can we call him a benevolent person?” Confucius replied, “That is beyond the benevolent. He must be a sage. Even Yao and Shun struggled to do that. A benevolent person should make others stand, if he want to stand. And he should make others go, if he want to go. A benevolent person always considers others as himself. This is the way of a benevolent person.”

現代語訳
子貢(しこう)が尋ねました、
「もし人々に施して豊かにし、多くの災難から民衆を救えたとしたらどうでしょう、仁者といえますか?」
孔子は、
「それは仁者どころの話では無い。それは聖人の領域だ。古代の聖帝である尭・舜(ぎょう・しゅん)もその事に苦労された程だ。仁者というのは、自らが立ちたいと思えば他人を先に立たせ、自らが行きたいと思えば他人を先に行かせる。常に他者を自分の様に考える。それが仁者の考え方というものだ。」
と答えられました。

Translated by へいはちろう

子貢(しこう:姓は端木、名は賜、字は子貢。孔門十哲の一人。詳細は公冶長第五の九に。)

(ぎょう:中国の伝説上の聖帝。姓は伊祁(いき)、名は放勲(ほうくん)。封地より陶唐氏ともいう。史記の五帝本紀によると、嚳(こく)の次子として生まれ、嚳の後を継いだ兄から禅譲を受けて帝となった。)

(しゅん:中国の伝説上の聖帝。姓は姚(よう)、名は重華(ちょうか)、封地より虞氏ともいう。尭の摂政を20年務めた後、尭より禅譲を受けて帝となった。舜はその後、黄河の治水に功績のあった禹(う)に禅譲し、禹は夏王朝の創始者となる。)

中国の伝説の三皇五帝の中でも尭・舜は聖帝として儒学が模範とする所でござる。特に自らの暮らしを質素にして民衆を一番に考え、位に固執せず有徳の者に位を譲った事が評価されているでござるな。

ちなみに始皇帝が名乗った皇帝というのは、古代の聖帝をも凌ぐという意味でござる。周から春秋にかけては王号が一番偉く諸侯は公とか候という王より与えられた爵位を名乗っていたのに、戦国時代に諸侯が王を自称して王号の価値が相対的に下がったために考え出されたのでござる。

さて今回で雍也第六は終了し、明日からは述而第七でござる。

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孔子の論語 雍也第六の二十九 中庸の徳たるや、其れ至れるかな

孔子の論語の翻訳149回目、雍也第六の二十九でござる。

漢文
子曰、中庸之爲徳也、其至矣乎、民鮮久矣。

書き下し文
子曰わく、中庸の徳たるや、其れ至れるかな。民鮮(すく)なきこと久し。

英訳文
Confucius said, “The doctrine of the Mean (moderation) is one of the best virtue. But few people have it nowadays.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「中庸(節度を守る事)の徳には至上の価値がある。しかしそれに従う人々は近頃少ない。」

Translated by へいはちろう

中庸(ちゅうよう:儒学の徳目の一つ。詳細は里仁第四の二十三に。)

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孔子の論語 雍也第六の二十八 予が否き所の者は、天これを厭たん

孔子の論語の翻訳148回目、雍也第六の二十八でござる。

漢文
子見南子、子路不説、夫子矢之曰、予所否者、天厭之、天厭之。

書き下し文
子、南子(なんし)を見る。子路(しろ)説(よろこ)ばず。夫子(ふうし)これに矢(ちか)って曰わく、予(わ)が否(すまじ)き所の者は、天これを厭(た)たん。天これを厭たん。

英訳文
Confucius had met Nan Zi. it was unpleasant for Zi Lu. Confucius swore, “If I make an error, Heaven will forsake me. Heaven will forsake me.”

現代語訳
孔子が南子(なんし)と会われました。子路(しろ)はこれが面白くはありませんでしたが、孔子は誓いを立てて、
「私の行いに間違いがあれば、天が私を見捨てるであろう。天が私を見捨てるであろう。」
とおっしゃいました。

Translated by へいはちろう

南子(なんし:衛の霊公の夫人。宋の国の出身で、宋の国の公子である宋朝と密通していたと言われる。衛の太子の蒯聵と仲が悪く、蒯聵は南子を暗殺しようとして失敗し逆に晋に亡命する。霊公の死後、南子は太子ではなく公子の一人である郢に後を継がせようとしたが郢は辞退し、変わって衛に残っていた蒯聵の子の輒が衛公に即位した(出公)。しかし蒯聵はこれを認めず帰国して衛公(荘公)となる。当時衛の街の代官をしていた子路はこの時の後継者問題に巻き込まれて死亡した。その後子路の死体が見せしめとして塩辛にされたと聞くと、孔子は家中の塩辛を全て捨てさせ、生涯塩辛を口にしなかったという。)

子路(しろ:孔門十哲の一人。詳細は公冶長第五の七に。)

歴史を知る者にとって、なんという皮肉な因果応報でござろうか。別に子路の死の責任が孔子にあるわけでは無いのでござるが、なんとも嫌な気持ちにさせられてしまうのでござる。

歴史を見ると南子の様な女性は枚挙にいとまが無いでござるな。衛の霊公の寵愛と大国宋の影響力を背景に南子は権勢を欲しいままにしていた。孔子もその権勢を前に面会を断る事が出来なかったのでござる。しかしその権力も霊公が生きていればこそ、霊公が死亡したら権力が衰えるどころか太子の蒯聵が衛公に即位したら殺されるかも知れない。こうして南子は自らを守るために、さらに無茶をする事となり国は乱れに乱れるのでござる。

中国三大悪女と呼ばれる漢の高祖の皇后である呂后や則天武后や清の西太后の様に、この手の大乱の全ての責任を女性一人を悪者にしてすませるのが儒教的発想というものでござるが、はっきり言って一人の人間に権力を集中しすぎる君主制の問題と、その君主であろうと尊属に逆らえないと言う儒教的価値観が生んだ悲劇でござる。

後継者問題というのは何も君主制だけの事では無いので、民主制に当てはめて色々考えてみても面白いでござるよ。権力というものは集中すればするほど、そのリスクを時間の経過と共に高めて行くものでござる。手ごろな時期に身を引くのはむしろ自分にとって最大の恩恵をもたらすというのは、老子もおっしゃっているでござるな。

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