論語」カテゴリーアーカイブ

孔子の論語 憲問第十四の二十四 君子は上達す、小人は下達す

孔子の論語の翻訳367回目、憲問第十四の二十四でござる。

漢文
子曰、君子上達、小人下達。

書き下し文
子曰わく、君子は上達(じょうたつ)す。小人は下達(かたつ)す。

英訳文
Confucius said, “Gentlemen are familiar with lofty matters. Worthless men are familiar with vulgar matters.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「人格者は高尚な事柄に精通する。つまらない人間は下賎な事柄に精通する。」

Translated by へいはちろう

高尚か下賎かは別として、「好きこそものの上手なれ」ということわざがあるでござるな。

趣味や嗜好というものは、普通の人々の理解の範疇を超えた次元に到達してこそ、その味を知ることができると拙者は考える次第。

拙者の歴史好きを例にだせば、「そんなに歴史に詳しいなんてすごいね」と言われている内はまだまだで、「そんなに歴史を勉強して何の役に立つの?」と人から呆れられるぐらいになりたいと思っているのでござる。

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孔子の論語 憲問第十四の二十三 欺くこと勿かれ、而してこれを犯せ

孔子の論語の翻訳366回目、憲問第十四の二十三でござる。

漢文
子路問事君、子曰、勿欺也、而犯之。

書き下し文
子路(しろ)、君に事(つか)えんことを問う。子曰わく、欺(あざむ)くこと勿(な)かれ。而(しか)してこれを犯せ。

英訳文
Zi Lu asked how to serve one’s lord. Confucius replied, “Do not lie to your lord. But remonstrate without hesitation.”

現代語訳
子路(しろ)が主君に仕える事を尋ねました。孔子は、
「嘘をついてはいけない。しかし主君の誤りは躊躇せずにいさめよ。」

Translated by へいはちろう

子路(しろ:季路とも言う。姓は仲、名は由、字は子路。詳細は公冶長第五の七に。)

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孔子の論語 憲問第十四の二十二 陳成子、簡公を弑す

孔子の論語の翻訳365回目、憲問第十四の二十二でござる。

漢文
陳成子弑簡公、孔子沐浴而朝、告於哀公曰、陳恆弑其君、請討之、公曰、告夫三子、孔子曰、以吾從大夫之後、不敢不告也、君曰、告夫三子者、之三子告、不可、孔子曰、以吾從大夫之後、不敢不告也。

書き下し文
陳成子(ちんせいし)、簡公(かんこう)を弑(しい)す。孔子、沐浴して朝(ちょう)し、哀公(あいこう)に告げて曰わく、陳恒(ちんこう)、其の君を弑す。請う、これを討たん。 公曰わく、夫(か)の三子(さんし)に告げよ。孔子曰わく、吾(われ)大夫の後(しりえ)に従えるを以て、敢(あえ)て告げずんばあらざるなり。君曰わく、夫の三子者(さんししゃ)に告げよと。三子に之(ゆ)きて告ぐ。可(き)かず。孔子曰わく、吾大夫の後に従えるを以て、敢て告げずんばあらざるなり。

英訳文
Chen Cheng Zi murdered marquis Jian of Qi. Confucius bathed and went to the palace and said to marquis Ai of Lu, “Chen Heng murdered his lord. Let us punish him, Your Excellency.” Marquis Ai replied, “Talk to the heads of three families.” Confucius left the palace and said, “As duty of a minister, I dared tell it to marquis Ai. But he said, ‘Talk to the heads of three families.'” Confucius proposed punishing Chen Heng to the three ministers. But they denied. Confucius said, “As duty of a minister, I dared tell it.”

現代語訳
陳成子(ちんせいし)が主君である斉の簡公(かんこう)を殺害しました。
孔子は沐浴した後に宮殿に上がって魯の哀公(あいこう)に言いました、
「陳恒(ちんこう:陳成子の事)が主君を殺害しました。どうかこの無道者をお討ち取り下さい。」
哀公は、
「御三家の当主たちに聞け。」
と答えました。孔子は退出した後でつぶやいて言いました、
「大臣の末席にいる者として、哀公に申し上げずにはいられなかったのだ。しかし “御三家の当主に聞け” とおっしゃるとは。」
そして御三家の当主たちに会って陳成子の討伐を進言しましたが、彼らは却下しました。
孔子は、
「大臣の末席にいる者として、大義をもって正論を言わずにはいられなかったのだ。」
とおっしゃいました。

Translated by へいはちろう

陳成子・陳恒(ちんせいし・ちんこう:斉の宰相、田常の事。後の田氏斉の先祖。姓は陳または田、名は恒(後に漢の文帝・劉恒に遠慮して常と表記されるようになる)、成子は諡号。陳は田氏の出身国。田氏は領民に米を施す時には大きな枡ではかり、税を取り立てる時には小さな枡ではかって斉の民衆からの支持を得た。政敵を粛清しながらも民衆からの支持は篤く、斉の政治の実権を握った。簡公は田常の専横を排そうとしたが、逆に捕らえられて殺されてしまった。結果、斉は完全に田氏の支配するところとなり、BC386年に周の安王によって正式に田氏が斉公に封じられて太公望の血統は滅び、斉は田氏斉となる。)

斉の簡公(かんこう:在位BC484-BC481年。田常の政敵である監止を用いて田氏の専横を排そうとしたが監止ともども田常に殺害される。先代の悼公も田常の父の田乞の政敵である鮑牧に殺害されている。)

簡公の運命を思えば、哀公はのん気だなと思わざるを得ないでござるな。もしくは既に臆していたのでござろうか。

ただし上述の通り、陳成子=田常は野心家とはいえ無能とは言えず、魯が大国斉に討伐軍を差し向けても勝てる見込みはなかったでござろう。それが解るから御三家が拒否するのは当然として、孔子が魯公の行く末を案じるのもこれまた当然でござるな。

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孔子の論語 憲問第十四の二十一 其の言に怍じざれば、則ちこれを為すこと難し

孔子の論語の翻訳364回目、憲問第十四の二十一でござる。

漢文
子曰、其言之不怍、則其爲之也難。

書き下し文
子曰わく、其の言に怍(は)じざれば、則(すなわ)ちこれを為すこと難(かた)し。

英訳文
Confucius said, “If you don’t feel shame when you couldn’t do what you said, you can accomplish nothing.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「自分の言ったことに違う事を恥と思わないようでは、人は何も成し遂げられないだろう。」

Translated by へいはちろう

有言実行、論語内で孔子がたびたびおっしゃっている事でござる。こんな当たり前の正論がなかなか実行するとなると難しいものなのでござるよな。耳が痛い…

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孔子の論語 憲問第十四の二十 仲叔圉 は賓客を治め、祝鴕は宗廟を治め、王孫賈は軍旅を治む

孔子の論語の翻訳363回目、憲問第十四の二十でござる。

漢文
子言衛霊公之無道也、康子曰、夫如是、奚而不喪、孔子曰、仲叔圉治賓客、祝鴕治宗廟、王孫賈治軍旅、夫如是、奚其喪。

書き下し文
子、衛の霊公(れいこう)の無道なるを言う。康子(こうし)が曰わく、夫(そ)れ是(か)くの如(ごと)くんば、奚(いか)にしてか喪(うし)なわざる。孔子曰わく、仲叔圉 (ちゅうしゅくぎょ)は賓客を治め、祝鴕(しゅくだ)は宗廟(そうびょう)を治め、王孫賈(おうそんか)は軍旅(ぐんりょ)を治む。夫れ是くの如くんば、奚(な)んぞ其れ喪なわん。

英訳文
Confucius criticized Marquis Ling of Wei for his unreasonableness. Ji Kang Zi asked, “Why does not the country of Wei ruin because of him?” Confucius replied, “Zhong Shu Yu attends to foreign diplomats. Zhu Tuo performs the rite at ancestral temple. Wang Sun Jia manages the army. So Wei does not ruin.”

現代語訳
孔子が衛の霊公(れいこう)の無道さを批判しました。
魯の季康子(きこうし)が、
「それだけ無道でどうして衛が滅びないのです?」
と尋ねると、孔子は、
「仲叔圉 (ちゅうしゅくぎょ)が他国の使者を接待し、祝鴕(しゅくだ)が先祖の祭祀を行い、王孫賈(おうそんか)が軍を統率しています。だから衛が滅びないのです。」
と答えられました。

Translated by へいはちろう

衛の霊公(れいこう:在位BC534-BC493。雍也第六の二十八にあるとおり、夫人の南子を寵愛した。孔子は三度霊公に仕官している。一度目は魯と同じ待遇(米六万斗)で登用したが他者の中傷を信じて武器をもっておどし、孔子は衛を去った。二度目は市中視察の時に南子を馬車に同乗させ、宦官を陪乗させ、孔子は後車に乗せられた。これを恥とした孔子は衛を去った。三度目に孔子が訪れた時は、霊公は孔子を登用しなかった。霊公の死後、衛では南子を暗殺しようとして失敗して晋に亡命していた長子の蒯聵とその子の輒との間に後継者問題が発生する。孔子の弟子の子路はこの争いに巻き込まれて死亡した。)

季康子(きこうし:魯の宰相、姓は季孫、名は肥、康子は諡(おくりな)。魯の実質的支配者である三桓氏の筆頭。)

仲叔圉(ちゅうしゅくぎょ:衛の大臣。孔文子とも呼ばれる。公冶長第五の十五に前出。)

祝鮀(しゅくだ:衛の臣。雍也第六の十六に前出。)

王孫賈(おうそんか:衛の大臣八佾第三の十三に前出。)

管仲を抜擢した斉の桓公のように有能な家臣を任用するのも君主の器量なのでござる。ただし桓公は管仲がいなくとも凡庸な君主というイメージにとどまるのでござるが、霊公は暗愚といっても良いイメージでござるな。

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