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孔子の論語 憲問第十四の十九 以て文と為すべし

孔子の論語の翻訳362回目、憲問第十四の十九でござる。

漢文
公叔文子之臣大夫僎、與文子同升諸公、子聞之曰、可以爲文矣。

書き下し文
公叔文子(こうしゅくぶんし)の臣、大夫僎(せん)、文子と同じく公(こう)に升(のぼ)る。子これを聞きて曰わく、以て文と為すべし。

英訳文
Gong Shu Wen Zi recommended his subordinate Xian to the minister even though he is also the minister. Confucius heard this and said, “He is fit for the name of Wen.”

現代語訳
公叔文子(こうしゅくぶんし)は家臣であった僎(せん)を自分と同じ大臣として推挙しました。
孔子がこれを聞いておっしゃいました、
「まさに “文” の名に相応しい人だな。」

Translated by へいはちろう

公叔文子(こうしゅくぶんし:衛の大夫。公叔発とも言う。呉の季札に君子と評された。)

文子とは死後に生前の徳を偲んで贈られる諡号(しごう)で周の文王などのように、徳を持った人物に贈られる諡号の中でも最高の称号でござる。

とはいえ実際に贈る人間は俗世間に生きる人間でござるから、必ずしも生前の徳のみで判断されるわけではなく、政治的影響力も多分に考慮されていたであろう事は間違いないでござるな。公冶長第五の十五の孔文子などは子貢から、「どうしてこんな人が文子なんですか?」と疑問に思われてるほどでござる。

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孔子の論語 憲問第十四の十八 管仲、桓公を相けて諸侯に覇たり、天下を一匡す

孔子の論語の翻訳361回目、憲問第十四の十八でござる。

漢文
子貢曰、管仲非仁者與、桓公殺公子糾、不能死、叉相之、子曰、管仲相桓公覇諸侯、一匡天下、民到于今受其賜、微管仲、吾其被髪左衽矣、豈若匹夫匹婦之爲諒也、自経於溝涜而莫之知也。

書き下し文
子貢(しこう)が曰わく、管仲(かんちゅう)は仁者に非(あら)ざるか。桓公(かんこう)、公子糾(こうしきゅう)を殺して、死すること能わず。又たこれを相(たす)く。子曰わく、管仲、桓公を相(たす)けて諸侯(しょこう)に覇(は)たり、天下を一匡(いっきょう)す。民、今に到(いた)るまで其の賜(し)を受く。管仲微(な)かりせば、吾(われ)其れ髪(はつ)を被り衽(じん)を左にせん。豈(あに)に匹夫匹婦(ひっぷひっぷ)の諒(まこと)を為し、自ら溝涜(こうとく)に経(くび)れて知らるること莫(な)きが若(ごと)くならんや。

英訳文
Zi Gong asked, “Guan Zhong was not benevolent, was he? When Marquis Huan killed young lord Jiu, he did not follow his master to the grave. Moreover, he assisted Marquis Huan.” Confucius replied, “Guan Zhong made Marquis Huan become a supreme ruler and reformed the world. People receive benefit from him even now. If he had not existed, we would have been under the control of barbarians who have untidy hairs and queer clothes. Why can we compare him and foolish lovers who committed a double suicide in the ditch without being noticed?”

現代語訳
子貢(しこう)が尋ねました、
「管仲(かんちゅう)は仁者ではありませんね。桓公(かんこう)が主君である公子糾(こうしきゅう)を殺したというのに、殉死するどころか桓公に仕えるのですから。」
孔子は、
「管仲は桓公を覇者にして、天下を正したのだ。人々は今でもその恩恵を受けている。もし管仲がいなかったら、今頃我々はざんばら髪に服を左前に着るなどという蛮族の支配下で生活させられていたかも知れない。どうして溝の中で心中をはかって誰にもその死を気づいてもらえないような愚かな男女の誠実さと比べて良いだろうか。」
と答えられました。

Translated by へいはちろう

子貢(しこう:姓は端木、名は賜、字は子貢。詳細は公冶長第五の九に。)

管仲・桓公・公子糾(かんちゅう・かんこう・こうしきゅう:前回の憲問第十四の十七を参照。)

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孔子の論語 憲問第十四の十七 桓公諸侯を九合して、兵車を以てせざるは管仲の力なり

孔子の論語の翻訳360回目、憲問第十四の十七でござる。

漢文
子路曰、桓公殺公子糾、召忽死之、管仲不死、曰未仁乎、子曰、桓公九合諸侯、不以兵車、管仲之力也、如其仁、如其仁。

書き下し文
子路(しろ)が曰わく、桓公(かんこう)、公子糾(こうしきゅう)を殺す。召忽(しょうこつ)これに死し、管仲(かんちゅう)は死せず。曰わく、未(いま)だ仁ならざるか。子曰わく、桓公、諸侯を九合(きゅうごう)して、兵車(へいしゃ)を以(もっ)てせざるは、管仲の力なり。其の仁に如(し)かんや、其の仁に如かんや。

英訳文
Zi Lu asked, “When Marquis Huan killed young lord Jiu, Zhao Hu followed his master to the grave. But Guan Zhong did not. He was not benevolent, was he?” Confucius replied, “When Marquis Huan called feudal lords together, he did not use force. It was thanks to Guan Zhong. Who can be more benevolent than him? Who can be more benevolent than him?”

現代語訳
子路(しろ)が尋ねました、
「斉の桓公が政敵であった公子糾(こうしきゅう)を殺した時、召忽(しょうこつ)は共に殉死しましたが管仲(かんちゅう)は死にませんでした。彼は仁者とは言えませんね。」
孔子は、
「桓公が諸侯を集めて会盟を開いた時に、桓公は武力を用いなかった。これは管仲の功績で、誰がその仁に及ぶ事ができようか。誰がその仁に及ぶ事ができようか。」
と答えられました。

Translated by へいはちろう

子路(しろ:季路とも言う。姓は仲、名は由、字は子路。詳細は公冶長第五の七に。)

斉の桓公(かんこう:在位BC685-BC643年、春秋五覇の一人。詳細は憲問第十四の十六に。)

公子糾(こうしきゅう:桓公の兄。斉の後継者騒動の際に魯の国に亡命していた。同様に莒に亡命していた小白(後の桓公)と先に帰国した方が斉公になれるという時に、当時は公子糾の家臣であった管仲は小白の暗殺を試みる。管仲の放った矢は小白の腰止に当たったのだが、小白は死んだふりをした。安心した公子糾と管仲はゆっくり斉に帰国したが、その時には既に桓公が即位していた。公子糾は再度魯国に亡命したが、桓公は魯に公子糾の首を要求して魯はこれに応じた。)

召忽(しょうこつ:公子糾の家臣。公子糾と共に魯で殉死した。)

管仲(かんちゅう:春秋時代を代表する名宰相。斉公の位についた桓公は初め管仲に命を狙われたことを怒り管仲も殺そうとしていた。しかし腹心で管仲の親友でもある鮑叔牙に「公が斉の君主であるだけでよいならば、この私でも宰相が務まりましょう。しかし公が天下の覇者になりたいと思われるならば宰相は管仲でなければなりません」と言われ、管仲を魯から引き取り宰相とした。八佾第三の二十二では「器の小さい人間」と孔子に言われている。)

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孔子の論語 憲問第十四の十六 晋の文公は譎りて正しからず、斉の桓公は正しくして譎らず

孔子の論語の翻訳359回目、憲問第十四の十六でござる。

漢文
子曰、晋文公譎而不正、齊桓公正而不譎。

書き下し文
子曰わく、晋の文公は譎(いつわ)りて正しからず。斉の桓公は正しくして譎らず。

英訳文
Confucius said, “Marquis Wen of Jin used scheming and strayed from the right path. Marquis Huan of Qi trod on the right path and did not use scheming.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「晋の文公は策謀を用いて正道を踏まなかった。斉の桓公は正道を踏んで策謀を用いなかった。」

Translated by へいはちろう

晋の文公(ぶんこう:在位BC636-BC628年、春秋五覇の一人。若い頃に亡命公子として各地を転々として苦労を重ね、老いて帰国して晋公についた後に覇者となる。亡命中に世話になった国には手厚く恩に報いたが、粗略にされた国には報復をした。)

斉の桓公(かんこう:在位BC685-BC643年、春秋五覇の一人。春秋随一の名宰相の管仲を得て春秋最初の覇者となる。管仲存命中は自制をしていたが、管仲死亡後は国政を顧みなくなり放蕩に明け暮れるようになった。管仲が亡くなる時に引き立ててはいけないと言った佞臣たちをも登用して国政は乱れた。桓公が病床に就くと公子たちの後継者争いの中で息を引き取り、67日の間その遺体は放置されたままになり、棺からウジが湧き出したという。)

この二人は「斉桓晋文」と称されるほどの春秋時代の名君でござる。両者に共通している事は才能ある良い家臣にめぐまれて、互いに強い信頼関係を気づいた点でござるな。

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孔子の論語 憲問第十四の十五 臧武仲、防を以て魯に後たらんことを求む

孔子の論語の翻訳358回目、憲問第十四の十五でござる。

漢文
子曰、臧武仲以防求爲後於魯、雖曰不要君、吾不信也。

書き下し文
子曰わく、臧武仲(ぞうぶちゅう)、防(ぼう)を以(もっ)て魯に後(のち)たらんことを求む。君を要せずと雖(いえど)も、吾(われ)は信ぜざるなり。

英訳文
Confucius said, “Zang Wu Zhong asked the lord of Lu that his family succeeds the ownership of Fang. They say he did not compel. But I don’t think so.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「(魯から斉に亡命する時に)臧武仲(ぞうぶちゅう)は魯公に対して防の地を彼の一族が引き続いて領有できるように頼んだ。強要したのでは無いと言われているが、私はそうは思わない。」

Translated by へいはちろう

臧武仲(ぞうぶちゅう:姓は臧孫、名は紇。孔子の父親の時代の魯の司寇。知者として知られ臧武仲が防の地で斉の軍に包囲された時に孔子の父親の叔梁紇によって助け出された因縁がある。名前も父と同じ紇であり、役職は孔子と同じ司寇である。おそらく若いときの孔子はこの因縁深い先輩をおおいに意識していたのではないかと推測される。)

臧武仲はこれまた孔子と同じで魯の御三家の一つである季孫氏に寵愛されていたのでござるが、孟孫氏には嫌われていたのでござる。孟孫氏は季孫氏と臧武仲の仲を裂こうと諮って、季孫氏に対して臧武仲が謀反をたくらんでいると忠告したのでござる。まんまと孟孫氏の策略にはまった季孫氏は臧武仲を攻撃したため、臧武仲をやむを得ず魯国を去る事になり、その時に代々に渡って統治して来た防の地を彼の兄に継がせて欲しいと魯公に頼んだ。というのが今回の話でござるな。

上述の通り防の地は臧孫氏が代々に渡って統治して来た土地で彼の影響力は非常に大きいはずでござる。臧武仲は斉に亡命するのでござるが。もし魯公が臧武仲の要求をこばんだら、最悪の場合に斉の軍と強力して国境の要衝である防の地を奪われる可能性があるので、魯公としては臧武仲の要求を呑まざるを得なかったといのが実情でござろう。

逆に言えばそれだけ臧武仲が有能であったという事でござるな。中国のことわざに「主を震わす者身危うく、功天下を蓋う者賞されず。」というのがあるのでござるが、有能すぎる家臣は凡庸な君主にとっては敵よりも恐ろしい存在なのでござる。

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