論語」カテゴリーアーカイブ

孔子の論語 述而第七の十七 詩、書、執礼、皆雅言す

孔子の論語の翻訳167回目、述而第七の十七でござる。

漢文
子所雅言、詩書執禮、皆雅言也。

書き下し文
子の雅言(がげん)する所は、詩、書、執礼、皆雅言す。

英訳文
Confucius spoke proper pronunciation of Zhou when he read Shi Jing, Shu Jing and courtesy documents at the rites.

現代語訳
孔子は詩経を読まれる時、書経を読まれる時、儀式において文書を読み上げられる時には周の正しい発音で発声された。

Translated by へいはちろう

詩経(しきょう:Shi Jing)も書経(しょきょう:Shu Jing)も儒学における五経と呼ばれる書物でござるが、詩経の一部を除いて周またはそれ以前から伝わる文書でござる。儀式の時に読みあげられる文書もおそらく周礼などで伝わるものでござろうから、暗黙的に周の標準語と思われていた古来よりの発音で発声されたということでござろう。

現在の中国大陸でも様々な発音や言語が使われており、我々のよく知る北京語や広東語の他に、福建語・湘語(長沙語)・呉語(上海語)・客家語・南昌語などの七大方言を始め少数民族も独自の言語を使用しており中国語と一言ですませられないものがあるのでござる。

もちろんこれらの言語も時代と共に移り変わっており、中国大陸では既に使用されなくなった漢字の読みが日本語に残っていたりするのは非常に面白い事でござる。英語でもイギリスで使われなくなった英語表現がアメリカ英語に残っていたりするでござるな。

言葉が文化の中核をなすものだとしたら、文化とは人々の生活を反映する鏡のようなものでござる。古来よりアジア諸国では言霊(ことだま)といって言葉や文字に何か超自然な力があると信じてきたのでござるが、なんだか納得できてしまうのは拙者が日本人であるからでござろう。

まぁ、~でござる などと書いてる拙者が言っても、少しの説得力を持ち得ないでござるな。

述而第七の英訳をまとめて読みたい御仁は本サイトの論語 述而第七を英訳を見て下され。

孔子の論語 述而第七の十六 五十にして以て易を学べば、大なる過ち無かるべし

孔子の論語の翻訳166回目、述而第七の十六でござる。

漢文
子曰、加我數年、五十以學、易可以無大過矣。

書き下し文
子曰わく、我に数年を加え、五十にして以て易(えき)を学べば、大なる過ち無かるべし。

英訳文
Confucius said, “If I study Yi Jing again, after age of 50, I will be able to avoid making serious mistakes.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「私がもう少し年を重ねて50歳になった後で易経を学び直せば、大きな間違いなどしなくなるだろう。」

Translated by へいはちろう

易経(えききょう、Yi Jing:儒学の五経の一つ、易または周易とも呼ぶ。今日まで伝わる易占の経典。)

簡単に言ってしまうと易経に書かれている事の真意を理解すれば、自ずから凶事を避ける事が出来るようになるだろうという事でござろうか。

易とは言うまでも無く占いの事でござるが、当時の人々にとっては非常に重要な教養の一つでござった。特に周王朝の開祖である武王の父親の文王、弟の周公旦などは両者ともに孔子の尊敬する人物で、同時に占術に非常な才能を発揮して後世の易に大きな影響を与えているのでござる。

述而第七の英訳をまとめて読みたい御仁は本サイトの論語 述而第七を英訳を見て下され。

孔子の論語 述而第七の十五 疏食を飯い水を飲み、肱を曲げてこれを枕とす。楽しみ亦其の中に在り

孔子の論語の翻訳165回目、述而第七の十五でござる。

漢文
子曰、飯疏食飮水、曲肱而枕之、樂亦在其中矣、不義而富且貴、於我如浮雲。

書き下し文
子曰わく、疏食(そし)を飯(くら)い水を飲み、肱(ひじ)を曲げてこれを枕とす。楽しみ亦(また)其の中に在り。不義にして富み且(か)つ貴(たっと)きは、我に於(おい)て浮雲(ふうん)の如(ご)とし。

英訳文
Confucius said, “Eating poor meals and sleeping without a pillow, such a life has also pleasure. Earning money and getting a high position by dishonest means, such a life is fleeting clouds for me.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「粗末な食事を食べて肘を枕に眠る、そんな生活の中にも喜びはある。不正に金を儲けて高い地位を得る、そんな生き方は私にとっては浮雲のようにはかなく感じられる。」

Translated by へいはちろう

清貧を貴ぶ教えでござるな。清貧といえば孔子よりも老子のイメージなのでござるが、老子の場合は手段にかかわらず必要以上の財は持つべきで無いという考えで、孔子の場合は正当に財を得て他者のためにそれを使うならば蓄財も悪いことでは無い、という感じでござろうか。

老子と孔子という哲学の比較も面白いでござるが、本来同じ価値観を持っていた文化圏から生まれた多くの思想に財産をどの様に考えるかという差異の共通点が見られる場合が多いのは面白いことだと思う次第。歴史的な言い方をすれば、商人などの中産階級が発展すると蓄財を是とする思想が生まれるのでござる。哲学や思想のために生きるのではなく、人々の暮らしのために哲学や思想があるのだというよい証左の一つでござるな。

日本では古来より裕福な人を素直に羨ましく感じつつ、人格的に否定する様な一面があるでござるな。「武士は食わねど高楊枝」とかいう言葉もある様に高潔な人=清貧、というイメージでござる。日本で貨幣経済が根付いて中産階級が発展したと言えば江戸時代なのでござるが、支配者階級であった武士に極端な清貧・節約の思想があったために蓄財は是という考えはあまり発展しなかったのでござる。

述而第七の英訳をまとめて読みたい御仁は本サイトの論語 述而第七を英訳を見て下され。

孔子の論語 述而第七の十四 仁を求めて仁を得たり、又た何ぞ怨みん

孔子の論語の翻訳164回目、述而第七の十四でござる。

漢文
冉有曰、夫子爲衛君乎、子貢曰、諾、吾將問之、入曰、伯夷叔齊何人也、子曰、古之賢人也、曰怨乎、曰、求仁而得仁、叉何怨乎、出曰、夫子夫爲也。

書き下し文
冉有(ぜんゆう)が曰わく、夫子(ふうし)は衛(えい)の君を為(たす)けんか。子貢(しこう)が曰わく、諾(だく)、吾(われ)将(まさ)にこれを問わんとす。入りて曰わく、伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)は何人ぞや。曰わく、古 (いにしえ)の賢人なり。曰わく、怨(うらみ)たるか。曰わく、仁を求めて仁を得たり。又た何ぞ怨みん。出でて曰わく、夫子は為(たす)けじ。

英訳文
Ran You asked Zi Gong, “Is master going to help Lord of Wei?” Zi Gong replied, “Good question. I also want to know that.” Then Zi Gong entered Confucius’s room and asked, “What kind people are Bo Yi and Shu Qi?” Confucius replied, “They were ancient sages.” Zi Gong asked again, “Did they regret refusing the throne?” Confucius replied, “They aspired the benevolent and obtained it. They never regretted.” Zi Gong left the room and said to Ran You, “Master will not help Lord of Wei.”

現代語訳
冉有(ぜんゆう)が子貢(しこう)に、
「先生は衛公を助けられるでしょうか?」
と尋たので、子貢は、
「そうですね、私もそれが知りたかったところです。」
と言って孔子の部屋に入り、尋ねました、
「伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)はどんな人物でしょうか?」
孔子は、
「古代の賢人だ。」
と答えられ、子貢はさらに、
「彼らは君主の座を辞退した事を後悔したでしょうか?」
と尋ね、孔子は、
「仁を為そうとして、仁を得たのだ。どうして後悔などしようか。」
と答えられました。
子貢は満足して退出し、冉有に、
「先生は衛公を助けられないでしょう。」
と言いました。

Translated by へいはちろう

冉有(ぜんゆう:姓は冉、名は求、字は子有。孔門十哲の一人。詳細は八佾第三の六に。)

子貢(しこう:姓は端木、名は賜、字は子貢。孔門十哲の一人。詳細は公冶長第五の九に。)

伯夷・叔齊(はくい・しゅくせい:孤竹国の公子の兄弟。君位を譲り合ってついに二人とも国を去った。詳細は公冶長第五の二十三に。)

当時の衛の国は先代の霊公が亡くなった後、太子の蒯聵(かいかい)が霊公の寵姫であった南子(なんし)の暗殺に失敗して晋に亡命していたために、蒯聵の子であった輒(ちょう)が衛公となり治めていたのでござるが(出公)、蒯聵はこれを認めず帰国して自分が衛公になろうとしたのでござる。

その際に孔子がどちらの味方をするか弟子たちは気をもんだのでござるが、子貢は伯夷・叔斉を例に孔子の考えを知ろうとしたのでござる。結局孔子はどちらの味方もされなかったのでござるが、しかしよくよく考えてみれば子貢がこの二人を例に出す時点で確信的に聞いたとしか思えないでござるな。

このお家騒動は蒯聵が勝利して衛公となって終結するのでござるが(荘公)、当時衛の街の代官を務めていた孔子の弟子の子路が巻き込まれて死亡しているでござる。

述而第七の英訳をまとめて読みたい御仁は本サイトの論語 述而第七を英訳を見て下され。

孔子の論語 述而第七の十三 図らざりき、楽を為すことの斯に至らんとは

孔子の論語の翻訳163回目、述而第七の十三でござる。

漢文
子在齊、聞韶樂三月、不知肉味、曰、不圖爲樂之至於斯也。

書き下し文
子、斉に在(いま)して、三月、肉の味を知らず。曰わく、図(はか)らざりき、楽を為すことの斯(ここ)に至らんとは。

英訳文
Confucius listened to Shao music when he stayed in Qi. He was impressed by the music as he couldn’t taste anything for three months. Confucius said, “I’ve never thought that a music can be so lofty.”

現代語訳
孔子が斉の国に滞在されている時、韶(しょう)の音楽を聞かれて感動し、三ヶ月間肉の味が解らない程でした。そして、
「音楽がこの様な高みに達しようとは想像もしなかった。」
とおっしゃいました。

Translated by へいはちろう

(しょう:伝説上の聖帝である舜(しゅん)が作ったとされる曲。八佾第三の二十五でも孔子は韶を絶賛している。)

儒学では礼楽というように礼と並んで重要視されるのが音楽でござるな。一言で音楽といっても、詩・歌・楽奏・舞踊と多岐に渡っており、儀式に使われる様な宮廷音楽から人々の生活から生まれてきた民謡まで幅広く孔子は音楽を愛されたそうでござる。

儒学の五経の一つであり、孔子が編纂したとされる詩経には当時の中国で親しまれていた民謡から、宮廷行事などで演奏された音楽の詩篇が収録されており、当時の人々の生活をうかがい知る貴重な資料となっているのでござる。

述而第七の英訳をまとめて読みたい御仁は本サイトの論語 述而第七を英訳を見て下され。