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孔子の論語 子罕第九の二 大なるかな孔子、博く学びて名を成す所なし

孔子の論語の翻訳210回目、子罕第九の二でござる。

漢文
逹巷黨人曰、大哉孔子、博學而無所成名、子聞之、謂門弟子曰、吾何執、執御乎、執射乎、吾執御矣。

書き下し文
達巷党(たつこうとう)の人曰わく、大なるかな孔子、博く学びて名を成す所なし。子これを聞き、門弟子(もんていし)に謂(い)いて曰わく、吾(われ)は何を執(と)らんか、御(ぎょ)を執らんか、射(しゃ)を執らんか。吾は御を執らん。

英訳文
A man from Da Xiang Tang said, “How great Confucius is! He studies extensively and does not become a specialist of one field.” Confucius heard this and said to pupils, “Then, which fields should I take, driving a carriage or archery? I prefer driving a carriage.”

現代語訳
達巷党(たつこうとう)という村から来た人が言いました、
「孔子は何て偉大なんだろう。幅広く学問を学んで一つの分野の専門家とはならない。」
これを聞いた孔子は弟子達におっしゃいました、
「それじゃあ馬車の操縦と弓術、どちらの専門家になろうか?私は馬車の操縦の方が好みだな。」

Translated by へいはちろう

予想外の褒め方をされてテレ隠しに冗談をいう孔子の様子が思い浮かぶでござるな。

中国では古来より日本と比較して専門家や技術者を軽視する傾向があるでござるな。一つの分野に特化した専門家よりは、そういった人々の上に立ってまとめる人間を重要視したのでござる。逆に日本ではこういうタイプの人間を権力志向だと言って軽視する傾向があるやもしれないでござるな。

孔子が育成しようとしたのもまさに人々の上に立つような人材たちで、馬車の操縦が良いと言ったのも、そういう身分の人間の側近く仕える事ができるからかも知れないでござるな。

文明や文化の発達にはどちらのタイプの人間も重要なので、本当はどちらもきちんと評価される方が良いのでござるけど。

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孔子の論語 子罕第九の一 子、罕に利を言う

孔子の論語の翻訳209回目、子罕第九の一でござる。

漢文
子罕言利與命與仁。

書き下し文
子、罕(まれ)に利を言う、命と与(とも)にし仁と与にす。

英訳文
Confucius hardly talked about benefit. He referred to destiny and benevolence whenever he talked about benefit.

現代語訳
孔子が利益について語られる事はほとんどなかった。利益について語られる時には、必ず天命や仁徳についても言及された。

Translated by へいはちろう

「利」を語る事を潔癖なまでに避けようとする儒家と、人々の助け合いによる「交利」を説いた墨家の議論については、里仁第四の十二里仁第四の十六でも触れているでござるが、ここでは西洋哲学の視点を入れて両者の差異を考えてみたいと思うでござる。

墨家の主張する「兼愛交利」の考え方は西洋哲学でいうところの功利主義に近いものがあり、人々が幸福になるという結果に重きを置いた考え方でござる。「最大多数の最大幸福」というジェレミ・ベンサムの有名な言葉があるでござるな。

反して儒家の主張する「利」を否定し「義」を重んじる考え方は、ソクラテスの「単に生きるのではなく、善く生きる」という言葉の考え方に近いものがあるでござる。結果よりも手段や過程を重んじる考え方でござるな。

西洋哲学の功利主義に関しても激しい議論が展開されているので、そちらも面白いでござるよ。

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孔子の論語 泰伯第八の二十一 禹は吾間然とすること無し

孔子の論語の翻訳208回目、泰伯第八の二十一でござる。

漢文
子曰、禹吾無間然矣、菲飮食、而致孝乎鬼神、惡衣服、而致美乎黻冕、卑宮室、而盡力乎溝洫、禹吾無間然矣。

書き下し文
子曰わく、禹(う)は吾(われ)間然(かんぜん)とすること無し。飲食を菲(うす)くして孝を鬼神(きしん)に致(いた)し、衣服を悪しくして美を黻冕(ふつべん)に致し、宮室(きゅうしつ)を卑(ひ)くして力を溝洫(こうきょく)に盡(つく)す。禹は吾間然すること無し。

英訳文
Confucius said, “Emperor Yu was flawless. He presented offerings to ancestors and gods, and his diet was simple for that. He enacted formal dress for the ceremony, and he wore simple dress ordinarily for that. He made efforts for irrigation and flood prevention works. and he lived in a simple palace for that. Emperor Yu was flawless.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「禹(う)には非の打ち所がないな。質素な食事を食べてその分を神々や祖先の捧げ物とし、普段の衣服を質素にしてその分儀式の礼服を立派にし、質素な宮殿に住んでその分を灌漑や治水工事に尽力した。禹には非の打ち所が無い。」

Translated by へいはちろ

(う:中国の伝説上の聖帝、夏王朝の創始者とされる。名は文命、姓は姒(じ)、夏王朝を創始してからは夏后氏と名乗った。はじめは堯(ぎょう)に仕え、舜(しゅん)に推挙されて司空となって黄河の治水事業にあたり大きな成功を治めた。堯が舜に位を禅譲した後は舜の元で宰相を17年間務めた。舜は禹に位を譲ろうとしたが、禹は5度これを辞退した。帝になってからはしばらくの間、武具の生産を取りやめ、田畑の収穫高に寛容な態度で臨み、宮殿の増改築を行わず、関所や市場の税を免除し、地方都市を整備し、煩雑な制度を改めて行政を簡略化した。その結果中華の内はもとより、異民族までも朝貢を求めてくるようになった。さらに禹は河を意図的に導くなどしてさまざまな河川を整備し、周辺の土地を耕して草木を育成し、中央と東西南北の違いを旗によって人々に示し、古のやり方も踏襲し全国を分けて九州を置いた。禹は倹約政策を取り、自ら率先して行動した。45年間帝の位にいて、禹は家臣の益(えき)に位を禅譲しようとしたが、禹の死後、喪があけた後で益は禹の息子である啓(けい)に位を譲って隠棲してしまう。書物によっては益に不満を持つ諸侯の力を借りた啓が益を殺して位についたとも記載されているが、啓より以後は禅譲ではなく相続によって帝の位が継がれる事となる。)

禹に唯一の非があるとすれば、それは後継者問題を生前にしっかりと片付けておかなかった事でござるな。歴史を紐解けば、先代の主君が偉大であればあるほど死後の後継者問題は深刻になるものでござる。代が変われば引き立てられる家臣も変わるので家臣にとっても誰が後継者となるかは死活問題でござった。

それゆえに相続で位を継ぐようになってからは、後継者として太子を定めるようになったのでござる。

今回で泰伯第八は終了し、明日からは子罕第九でござる。

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孔子の論語 泰伯第八の二十 周の徳は、其れ至徳と謂うべきのみ

孔子の論語の翻訳207回目、泰伯第八の二十でござる。

漢文
舜有臣五人、而天下治、武王曰、予有亂臣十人、孔子曰才難、不其然乎、唐虞之際、於斯爲盛、有婦人焉、九人而已、三分天下有其二、以服事殷、周之徳、其可謂至徳也已矣。

書き下し文
舜(しゅん)、臣(しん)五人ありて、天下治まる。武王(ぶおう)曰わく、予(わ)れに乱臣十(らんしん)人ありと。孔子曰わく、才難(かた)しと、其れ然(しか)らずや。唐虞(とうぐ)の際、斯(ここ)に於(おい)て盛(さか)んと為(な) す。婦人あり、九人のみ。天下を三分して其の二を有(たも)ち、以て殷(いん)に服事(ふくじ)す。周の徳は、其れ至徳(しとく)と謂(い)うべきのみ。

英訳文
Emperor Shun had five prominent vassals, and he ruled the country peacefully. King [emperor] Wu said, “I have ten outstanding vassals.” Confucius said, “It is difficult to gather talents. Yes, indeed. Comparatively, there were many talented people at emperor Shun’s, emperor Yu’s and King Wu’s reigns. But one of King Wu’s vassals was a woman (his mother). So he had only nine outstanding vassals, to put it more precisely. King Wen ruled two thirds area of the country with those vassals when he was a mere feudal lord of Yin dynasty. So I think the virtue of Zhou dynasty is supreme.”

現代語訳
舜(しゅん)には卓越した家臣が5人いて、天下はよく治まっていた。武王は「私には素晴らしい家臣が10人もいる」と言った。
そして孔子はおっしゃいました、
「人材を得るのは難しいというが、その通りだな。舜や禹の時代の他には周の始めこそ多くの人材を輩出したものだが、武王の家臣の一人は女性なので、正確には9人だけだ。(文王の時代にはその家臣の働きによって)天下の三分の二を支配していたのに、それでも殷に従っていた。それゆえに周王朝の徳こそは最高のものだと言えるだろう。」

Translated by へいはちろう

(しゅん:中国の伝説上の聖帝、詳細は八佾第三の二十五に。)

武王(ぶおう:周の創始者、詳細は八佾第三の二十五に。)

文王(ぶんおう:姓は姫、名は昌。武王の父、殷の時代の西伯、周建国後に文王と諡号される。儒学においては仁徳の王の模範として敬われる。)

ちなみに舜の臣とは禹(う)・棄(き)・契(せつ)・皐陶(こうよう)・伯益(はくえき)の5人で、武王(文王)の臣とは周公旦(しゅうこうたん)・邵公爽(しょうこうせき)・太公望(たいこうぼう)・畢公(ひつこう)・栄公(えいこう)・太顛(たいてん)・闔妖(こうよう)・散宜生(さんぎせい)・南宮括(なんきゅうかつ)・太似(たいじ)の10人でござる。親族が多いのは古代ならではでござるな。

文王にはそれは立派な逸話がたくさん残っているのでござるが、国力から考えれば天下の3分の2を支配していたというのは言いすぎで、統治がおよんだ範囲は実質半分にも満たなかったでござろう。殷王朝の支配力が弱まったために相対的に勢力が強まったとはいえ、武王の代に諸侯が会盟して周を盟主と仰ぐまでは周一国で殷を滅ぼすのは不可能だったでござろう。

ついでにいうと祖父である古公亶父(ここうたんぽ)の「季歴の子の時代に周は栄える」という予言や、名軍師である太公望を召抱えたこと、殷の制度を改めて周独自の法律や暦などの諸制度を整えたこと、古公亶父や季歴に王号を諡号したこと、そして何より諸侯に対して紂王討伐を呼びかけた事を考えれば、孔子の評価は身びいきが過ぎると言わざるを得ないでござる。

文王が立派な人物だった事は間違いないでござるが、形式的に殷の臣下であっただけで、もう少し長生きしていれば確実に武王ではなく文王が殷を滅ぼしていたでござろう。

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孔子の論語 泰伯第八の十九 大なるかな、尭の君たるや

孔子の論語の翻訳206回目、泰伯第八の十九でござる。

漢文
子曰、大哉、尭之爲君也、巍巍乎唯天爲大、唯尭則之、蕩蕩乎民無能名焉、巍巍乎其有成功也、煥乎其有文章。

書き下し文
子曰わく、大なるかな、尭(ぎょう)の君たるや。巍巍(ぎぎ)として唯(た)だ天を大なりと為す。唯だ尭(ぎょう)これに則(のっと)る。蕩々(とうとう)として民(たみ)能(よ)く名づくること無し。巍巍として其れ成功あり。煥(かん)として其れ文章(ぶんしょう)あり。

英訳文
Confucius said, “What a great sovereign emperor Yao was! He served only the heaven majestically, and only he followed the heaven at the time. His reign was so peaceful as people could not express it with any words. He achieved the majestic success, and developed brilliant culture.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「尭(ぎょう)は何と偉大な統治者であったことだろう!彼は堂々として天のみに仕え、彼の時代には彼だけが天に従っていたのだ。彼の統治はとても穏やかで人々は何と言い表して良いか解らない程であった。彼の統治は偉大な成功を治め、文明と文化を発展させたのだ。」

Translated by へいはちろう

(堯、ぎょう:中国の伝説上の聖帝、史記の五帝本紀には以下の様に記されている。)

帝堯(ていぎょう)は、放勲(ほうくん)といい、帝嚳(ていこく)の子である。仁徳は万物に行き渡り、知は神のごとしであった。また、質素な日常で九族を親しみ、人々の才能に応じて官職を与えて規制した。義氏、和氏に命じて天の理に従って日月星を数えさせて、四時の運行に則り、種まき、収穫の時を人民に授けた。義仲を郁夷に移住させ、日の出の時刻を計って春耕の次第をたてさせた。義氏の三子、義叔を南交に移住させ、夏の農耕を定めさせた。義叔は、昼の最も長い日を夏至と定めた。和氏の二子、和仲を西土に移住させ、秋の収穫のてだてを導いた。和仲は、昼と夜の長さの等しい日を秋分と定めた。和氏の三子、和叔を北方に移住させた。和叔は、昼が最も短い日を冬至を定めた。1年を366日に定め、3年に一回閏月をおいて四時を正した。 帝堯は、即位して70年たって舜を見出し、その20年後年老いて引退し、舜に天子の政を行わせ、さらに28年後崩じた。

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