孔子の論語 泰伯第八の二十一 禹は吾間然とすること無し

孔子の論語の翻訳208回目、泰伯第八の二十一でござる。

漢文
子曰、禹吾無間然矣、菲飮食、而致孝乎鬼神、惡衣服、而致美乎黻冕、卑宮室、而盡力乎溝洫、禹吾無間然矣。

書き下し文
子曰わく、禹(う)は吾(われ)間然(かんぜん)とすること無し。飲食を菲(うす)くして孝を鬼神(きしん)に致(いた)し、衣服を悪しくして美を黻冕(ふつべん)に致し、宮室(きゅうしつ)を卑(ひ)くして力を溝洫(こうきょく)に盡(つく)す。禹は吾間然すること無し。

英訳文
Confucius said, “Emperor Yu was flawless. He presented offerings to ancestors and gods, and his diet was simple for that. He enacted formal dress for the ceremony, and he wore simple dress ordinarily for that. He made efforts for irrigation and flood prevention works. and he lived in a simple palace for that. Emperor Yu was flawless.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「禹(う)には非の打ち所がないな。質素な食事を食べてその分を神々や祖先の捧げ物とし、普段の衣服を質素にしてその分儀式の礼服を立派にし、質素な宮殿に住んでその分を灌漑や治水工事に尽力した。禹には非の打ち所が無い。」

Translated by へいはちろ

(う:中国の伝説上の聖帝、夏王朝の創始者とされる。名は文命、姓は姒(じ)、夏王朝を創始してからは夏后氏と名乗った。はじめは堯(ぎょう)に仕え、舜(しゅん)に推挙されて司空となって黄河の治水事業にあたり大きな成功を治めた。堯が舜に位を禅譲した後は舜の元で宰相を17年間務めた。舜は禹に位を譲ろうとしたが、禹は5度これを辞退した。帝になってからはしばらくの間、武具の生産を取りやめ、田畑の収穫高に寛容な態度で臨み、宮殿の増改築を行わず、関所や市場の税を免除し、地方都市を整備し、煩雑な制度を改めて行政を簡略化した。その結果中華の内はもとより、異民族までも朝貢を求めてくるようになった。さらに禹は河を意図的に導くなどしてさまざまな河川を整備し、周辺の土地を耕して草木を育成し、中央と東西南北の違いを旗によって人々に示し、古のやり方も踏襲し全国を分けて九州を置いた。禹は倹約政策を取り、自ら率先して行動した。45年間帝の位にいて、禹は家臣の益(えき)に位を禅譲しようとしたが、禹の死後、喪があけた後で益は禹の息子である啓(けい)に位を譲って隠棲してしまう。書物によっては益に不満を持つ諸侯の力を借りた啓が益を殺して位についたとも記載されているが、啓より以後は禅譲ではなく相続によって帝の位が継がれる事となる。)

禹に唯一の非があるとすれば、それは後継者問題を生前にしっかりと片付けておかなかった事でござるな。歴史を紐解けば、先代の主君が偉大であればあるほど死後の後継者問題は深刻になるものでござる。代が変われば引き立てられる家臣も変わるので家臣にとっても誰が後継者となるかは死活問題でござった。

それゆえに相続で位を継ぐようになってからは、後継者として太子を定めるようになったのでござる。

今回で泰伯第八は終了し、明日からは子罕第九でござる。

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