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孔子の論語 公冶長第五の二十三 伯夷叔齊、旧悪を念わず

孔子の論語の翻訳115回目、公冶長第五の二十三でござる。

漢文
子曰、伯夷叔齊、不念舊惡、怨是用希。

書き下し文
子曰わく、伯夷(はくい)・叔齊(しゅくせい)、旧悪(きゅうあく)を念(おも)わず。怨(うら)み是(ここ)を用(もつ)て希(まれ)なり。

英訳文
Confucius said, “Bo Yi and Shu Qi did not blame the people for old errors even though they were honest. So few people had a grudge against them.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「伯夷(はくい)・叔齊(しゅくせい)の兄弟は清廉で悪を憎んだが、古い過失を咎める事はなかった。だから彼らに恨みを抱く人はほとんどいなかったのだ。」

Translated by へいはちろう

伯夷・叔齊(はくい・しゅくせい:孤竹国の公子の兄弟。父親は弟である叔齊に位を譲ろうとしたが兄を差し置いて位を受ける事を拒み、お互いに位を譲りあって国を出て周の文王の下へ身を寄せた。文王の後を継いだ武王が殷の紂王を討とうと挙兵した時に「先代が亡くなられて間もないのに主君に叛するのは不孝にして不仁です。」と諌めた。武王が殷を滅ぼし周を興した後、「生涯周の粟を食べず」と誓い首陽山に隠遁して野草などを食べていたがついに餓死した。儒学において清廉潔白の士の代表とされる人物。)

清廉潔白にして他者に対する真心がなければ、独善と言われてもしょうがないでござるな。清廉である事と人を許す器量を持たぬ事とは全く別の事でござる。

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孔子の論語 公冶長第五の二十二 狂簡、斐然として章を成す。これを裁する所以を知らざるなり

孔子の論語の翻訳114回目、公冶長第五の二十二でござる。

漢文
子在陳曰、歸與歸與、吾黨之小子狂簡、斐然成章、不知所以裁之也。

書き下し文
子、陳(ちん)に在りて曰わく、帰らんか、帰らんか。吾が党(とう)の小子(しょうし)、狂簡(きょうかん)、斐然(ひぜん)として章(しょう)を成す。これを裁(さい)する所以(ゆえん)を知らざるなり。

英訳文
Confucius said in Chen, “Let’s go home, let’s go home. The young in our hometown have great ambitions as if they were gorgeous fabrics. But they seem not to know how to cut them.”

現代語訳
孔子が陳(ちん)にいらした時におっしゃいました、
「さぁ帰ろう、さぁ帰ろう。故郷の若者たちの大志はまるで豪奢な錦であるかの様だ。しかし彼らはその断ち方を知らないのだ。」

Translated by へいはちろう

大志を抱いて良き師にめぐり会えるという事は人生の幸福の中でも大きいものと言えるでござるな。思いをめぐらせれば世の中には漠然とした志を胸に抱きながらも、その思いを形と出来ず言葉と出来ず鬱屈とした気持ちをもてあましている若者は多かろうと思うのでござる。そんな気持ちが良い形で昇華できればよいでござるな。

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孔子の論語 公冶長第五の二十一 其の愚は及ぶべからざるなり

孔子の論語の翻訳113回目、公冶長第五の二十一でござる。

漢文
子曰、甯武子、邦有道則知、邦無道則愚、其知可及也、其愚不可及也。

書き下し文
子の曰わく、甯武子(ねいぶし)邦(くに)に道あるときは則(すなわ)ち知なり。、邦に道なければ則ち愚。其の知は及ぶべきなり、其の愚は及ぶべからざるなり。

英訳文
Confucius said, “Ning Wu Zi acted smart when the country was in order. And he acted quite honestly as if he were a fool when the country was in disorder. We can be as wise as him. But we cannot be as honest as him.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「甯武子(ねいぶし)は国家が治まっている時には利口に立ち回り、国が乱れている時には馬鹿正直に振舞った。彼の様に利口に立ち回るのは容易だが、馬鹿正直な振る舞いを真似るのは容易では無い。」

Translated by へいはちろう

甯武子(ねいぶし:姓は甯、名は兪、武は諡(おくりな)。衛の臣。忠義の士)

「国家が乱れている時にこそ愚直であるべきだ。」という事でござるな、なんだか西郷隆盛公を彷彿とさせる文章でござる。

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孔子の論語 公冶長第五の二十 季文子、三たび思いて而る後に行う

孔子の論語の翻訳112回目、公冶長第五の二十でござる。

漢文
季文子三思而後行、子聞之曰、再思斯可矣。

書き下し文
季文子(きぶんし)、三たび思いて而(しか)る後に行う。子、これを聞きて曰わく、再(ふたた)びせば斯(こ)れ可なり。

英訳文
Ji Wen Zi always thought matters over three times before practicing. Confucius heard this and said, “Twice would be enough.”

現代語訳
季文子(きぶんし)はいつも物事を三度考えてから実行に移した。孔子はこれを聞いて、
「二度で十分だろう。」
とおっしゃいました。

Translated by へいはちろう

季文子(きぶんし:姓は姫、氏は季孫、名は行父、文は諡(おくりな)。魯の宰相。宣公・ 成公・襄公の三代の宰相を務めながら暮らしぶりは質素であった。ある時仲孫它(ちゅうそんた)に「宰相ともあろうお方があまりに質素な暮らしをしていると民からケチと侮られ国家のためになりません。」と言われ、「民をみると彼らの父兄で粗衣粗食の者が多くいるので、 私は派手にしないのです。民が粗衣粗食なのに、宰相である私が豪華な暮らしをして国家の華とするとは聞いたことがありません。」と答えた。自分の間違いに気づいた仲孫它は自らも質素な暮らしを実践し、季文子は「過ちを反省して改める事が出来る人は、人の上に立つべきである。」と言って仲孫它を大夫に取り立てた。)

しかし賢臣というものは尽きぬものでござるな、もちろん佞臣(ねいしん)も枚挙にいとまがないのでござるが。孔子は春秋の世の乱れを仁礼の道徳によって秩序を保とうとしたのでござるが、この後さらに世は乱れ戦国~漢楚の戦い~匈奴の侵入・呉楚七国の乱と中華に平和が訪れるまでには多くの時間を要した事は多くを語る必要は無いでござるな。

漢は武帝の時代にようやく安定し儒学を国教と定め五経博士がおかれて、しばらくは平安が続くのでござるが、後漢末期には儒学の退廃によって再び戦乱の時代が幕を開けるのでござる。

孟子は「天は人民を通して天命を下す(天命説)」として民衆を最も重んじたのでござるが、まさに然りでござるな。おそらく孟子は季文子を仁者と認めたでござろう。

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孔子の論語 公冶長第五の十九 令尹子文、三たび仕えて令尹と為れども、喜ぶ色無し

孔子の論語の翻訳111回目、公冶長第五の十九でござる。

漢文
子張問曰、令尹子文、三仕爲令尹、無喜色、三已之、無慍色、舊令尹之政、必以告新令尹、何如也、子曰、忠矣、曰、仁矣乎、曰、未知、焉得仁、崔子弑齊君、 陳文子有馬十乘、棄而違之、至於他邦、則曰、猶吾大夫崔子也、違之、至一邦、則叉曰、猶吾大夫崔子也、違之、何如、子曰、清矣、曰、仁矣乎、曰、未知、焉 得仁。

書き下し文
子張(しちょう)問うて曰く、令尹(れいいん)子文(しぶん)、三たび仕えて令尹と為(な)れども、喜ぶ色(いろ)無し。三たび巳(や)められども、慍(うら)む色無し、旧令尹の政(まつりごと)、必 ず以(もっ)て新令尹に告(つ)ぐ。如何(いかん)。子曰わく、忠(ちゅう)なり。曰く仁(じ ん)なりや。曰わく、未(いま)だ知らず、焉(いずく)んぞ仁なるを得ん。崔子(さいし)斉の君(きみ)を弑(し い)す。陳文子(ちんぶんし)、馬(うま)十乗(じゅうじょう)有り、棄(す)てて之(これ)を違(さ)る。、他邦(たほう)に至(いた)りて則 (すなわ)ち曰く、猶(なお)吾(わ)が大夫(たいふ)崔子(さいし)がごときなりと。之を違る。一邦(いっぽう)に至り て則ち又(また)曰く、猶吾が大夫崔子がごときなりと。之を違る。如何。 子曰わく、清(せい)なり。曰く仁なりや。曰わく、未だ知らず、焉んぞ仁な るを得ん。

英訳文
Zi Zhang asked Confucius, “Zi Wen didn’t express his delight when he was appointed the minister three times. And he didn’t express discontent when he was dismissed from the minister three times. He took over duties from his predecessor and handed over them to his successor. How about him?” Confucius replied, “He is faithful.” Zi Zhang asked, “Isn’t he benevolent?” Confucius replied, “I don’t know whether he is benevolent or not.” Zi Zhang asked, “Chen Wen Zi left Qi without his fortune when Cui Zi murdered Marquis Qi. Then he visited two country and left them because there were some people like Cui Zi. How about him?” Confucius replied, “He is honest.” Zi Zhang asked, “Isn’t he benevolent?” Confucius replied, “I don’t know whether he is benevolent or not.”

現代語訳
子張(しちょう)が孔子に尋ねました、
「楚の宰相であった子文は三度宰相に任命されましたが特に喜んだ顔色を見せず、三度宰相を罷免されましたが特に不満も表さなかったそうです。また彼は前任の宰相の政務をきちんと後任の宰相に引継ぎました。彼はいかがでしょう?」
孔子は、
「忠実な人物だ。」
と答えられ、子張がさらに、
「仁者とは言えませんか?」
と尋ねると孔子は、
「仁者と言えるかは解らないな。」
と答えられました。次ぎに子張は、
「斉の崔子(さいし)が主君を殺した時、陳文子(ちんぶんし)は馬車十台もの財産を持ちながらそれらを捨てて斉を去りました。そして他国へ訪れた時にも、”この国にも崔子の様な輩が居る” と言ってさらに二度それらの国を去りました。彼はいかがでしょう?」
と尋ね、孔子は、
「清廉な人物だ。」
と答えられ、子張がさらに、
「仁者とは言えませんか?」
と尋ねると孔子は、
「仁者と言えるかは解らないな。」
と答えられました。
Translated by へいはちろう

子張(しちょう:姓は顓孫、名は師、字は子張。孔子の弟子の一人。先進第十一の十六では孔子に”過ぎたるはなお及ばざる如しの過ぎたる方”といわれている、ちなみに及ばざる方は子夏。また「師は辟(へき:うわべばかり)」とも言われている。同門の曾子からは、「立派ではあるが、ともに仁をなすことは難しい」、子遊からは「人には出来ない事が出来るが、まだ仁には至っていない」と評されている。)

子文(しぶん:姓は羋、氏は闘、名は穀於菟、字は子文。楚の宰相。両親は楚の公子の闘伯比(とうはくひ)と鄖公の娘であったが密通で生まれたため母に雲夢の沢の中に捨てられ虎の乳を飲んで育てられた。その後沢に狩りで訪れた鄖公に見つけられ二人は結婚を許された。 楚の人は乳を縠、虎を於菟と言ったので、闘縠於菟と名づけられたという。楚において宰相に抜擢されると私財を国庫に差し出して楚の財政を救った。楚の成王が食べるものにも困る子文の暮らしを案じて子文に俸禄を出そうとする度に宰相の位を捨てて下野し、成王が俸禄を出すのをやめると戻って宰相に復命した。何度か繰り返した後、ついに成王は子文に俸禄を出す事を諦め、子文が登朝するごとに肉の干物一束と、乾飯一籠を用意して贈った。)

陳文子(ちんぶんし:田須無、陳須無、田文子とも呼ばれる。田氏斉の祖先。)

崔子(さいし:姓は姜、氏は崔、名は杼、諡は武。斉の恵公・霊公・荘公・景公の時代に渡って専権を奮い、荘公を私的な恨みから殺したが、自分の子供の世継ぎ問題に乗じられて妻子を殺され自身は首をくくって死んだ。)

今回は文章の長さもさる事ながら登場人物が多かったでござるな、ちなみに孔子は陽貨第十七の六で子張に対して「恭寛信敏恵の五つを実践できれば仁と言える」と言っているでござる。すなわち「恭しい事・寛大である事・誠実である事・鋭敏である事・恵み深い事」の五つでござる。

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