孔子の論語 雍也第六の二十 これを知る者はこれを好む者に如かず、これを好む者はこれを楽しむ者に如かず

孔子の論語の翻訳140回目、雍也第六の二十でござる。

漢文
子曰、知之者不如好之者、好之者不如樂之者。

書き下し文
子曰わく、これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。

英訳文
Confucius said, “One who knows is no match for one who likes. One who likes is no match for one who enjoys.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「よく知る人もそれを好む人には勝てない、好む人もそれを楽しむ人には勝てない。」

Translated by へいはちろう

物事の本質をついた言葉でござるな、確かに色々な物事に詳しい事より好きで物事に臨む人、さらに楽しんで物事に臨む人の方が勝ると拙者も思うでござる。

そして人生も楽しんで生きたいと思うのでござるが、ただ快楽を追求すればそれで良いという訳ではないという意味の言葉もあるでござる。

「満足した豚よりも不満足な人間である方が、また満足した愚か者よりも不満足なソクラテスである方がよい」

このイギリス19世紀の哲学者、ジョン・スチュアート・ミルの言葉は人の好みや快楽にも質的な差異があるという主張でござる。

紀元前の孔子と19世紀の哲学者の言葉を比べるのはちと無理でござるな。

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孔子の論語 雍也第六の十九 人の生くるは直し

孔子の論語の翻訳139回目、雍也第六の十九でござる。

漢文
子曰、人之生也直、罔之生也、幸而免。

書き下し文
子曰わく、人の生くるは直(なお)し。これを罔(し)いて生くるは、幸(さいわい)にして免ぬがるるなり。

英訳文
Confucius said, “Life must be straight. If you can live a warped life, you are only lucky.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「人がこの世に生かされているのは真っ直ぐに生きているからだ。もし曲がった人生を送っている者がいても、それはこれまで運が良かっただけだ。」

Translated by へいはちろう

(ちょく)という字は真っ直ぐと言う意味なのでござるが、転じて素直・率直などの素朴なイメージと、清廉・潔白などの曲がった事を憎むイメージがあるでござるな。ここでは後ろに「罔(し)いて生くる」と、「曲がった人生」のイメージと対比させているので後者の意味合いの方が強い印象でござる。

ただこの二つは根本的には同じ様なもので、素朴な生き方を重んじた老子も、

天網恢恢、疏にして失せず。- 老子 第七十三章

とおっしゃっているでござる。

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孔子の論語 雍也第六の十八 文質彬彬として然る後に君子なり

孔子の論語の翻訳138回目、雍也第六の十八でござる。

漢文
子曰、質勝文則野、勝質文則史、文質彬彬、然後君子。

書き下し文
子曰わく、質(しつ)、文に勝てば則(すなわ)ち野(や)。文、質に勝てば則ち史(し)。文質(ぶんしつ)彬彬(ひんひん)として然る後に君子なり。

英訳文
Confucius said, “you will be unrefined if you prefer nature to appearance. you will be superficial if you prefer appearance to nature. Gentlemen should have good nature and appearance.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「外見にこだわらず内面だけを重んじれば野暮ったくなってしまう。内面にこだわらず外見だけを重んじれば薄っぺらくなってしまう。人格者は内面と外見をバランス良く保たねばならない。」

Translated by へいはちろう

儒学における礼にはとても細かい服装などの規定があるでござるな。ここでいう外見とはそういう意味の外見で、内面も大事だが最低限の外見は礼儀として取り繕うべきだという事でござろうか?

確かに極端に外見にこだわらな過ぎるのもいかがかと思うのでござるが、残念ながら雍也第六の五で紹介した原思と子貢のエピソードにもある様に、外見から内面まで判断されてしまう事はしばしばでござるな。

原思は貧しいながらもボロボロの礼服を身にまとって子貢に応対しているので、やはり外見をまったく無視しているわけでなく内面と外見のバランスを保っていたのであり、それを理解できなかった子貢に見る目が無かったと言えるでござろう。

子貢はその事を指摘されて反省するのでござるが、我らが人を見るときにも注意が必要でござるな。

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孔子の論語 雍也第六の十七 誰か能く出ずるに戸に由らざらん、何ぞ斯の道に由ること莫きや

孔子の論語の翻訳137回目、雍也第六の十七でござる。

漢文
子曰、誰能出不由戸者、何莫由斯道也。

書き下し文
子曰わく、誰か能く出ずるに戸(こ)に由(よ)らざらん。何ぞ斯の道に由ること莫(な)きや。

英訳文
Confucius said, “People must pass through a door when they go out. Why don’t they go along the Way when they live?”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「部屋から出るには誰しも戸口を通らねばならない、しかし生きるにあたって私の “道” を通らないのは何故だろうか?」

Translated by へいはちろう

孔子の「道」というのは狭義においては仁と礼に基づく学問と実践の道の事でござるが、広義に捉えれば “よく生きること” とも言えるでござるな。

ほぼ同世代のギリシャの哲学者であるソクラテスは、

大事なのは生きることではなく、”よく生きること” だ。そして “よく生きること” とは、”立派に生きること” と “正しく生きること” だ。 – クリトン

とおっしゃっており、孔子との共通点が見出せるでござるな。

しかし “無為自然に生きること” を「道」とした老子は孔子の言う様な道に対して、

大道は甚だ夷らかなるも、而も民は径を好む – 老子 第五十三章

と批判的でござる。

どちらの道を好むかは人それぞれでござるが、自分の歩く道がどんな道なのか漠然と考えてみるのも良い事でござるよ。

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孔子の論語 雍也第六の十六 祝鮀の佞あらずして宋朝の美あるは、難いかな、今の世に免がれんこと

孔子の論語の翻訳136回目、雍也第六の十六でござる。

漢文
子曰、不有祝鮀之佞、而有宋朝之美、難乎、免於今之世矣。

書き下し文
子曰わく、祝鮀(しゅくだ)の佞(ねい)あらずして宋朝(そうちょう)の美あるは、難(かた)いかな、今の世に免がれんこと。

英訳文
Confucius said, “If you were charming like Song Chao and didn’t have eloquence like Zhu Tuo, you couldn’t escape a disaster.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「もしも祝鮀(しゅくだ)の様な弁舌の才が無いのにも関わらず、宋朝(そうちょう)の様な美貌を持っていたとしたら、今の世の中を上手く渡っていくのは難しいだろう。」

Translated by へいはちろう

祝鮀(しゅくだ:祝は衛の祭祀を司る官名、鮀は名、字は子魚。衛の大夫で、雄弁をもってよく衛の霊公を補佐した。)

宋朝(そうちょう:宋の公子にして衛の大夫、名は朝。大変な美男子で衛の霊公の夫人である南子(宋出身)と密通していたとされる。)

この二人は孔子と同時代の人物で、BC497年(孔子56歳)に魯を去り諸国を遊説して回った孔子が一番最初に訪れたのが衛の国でござる。おそらくそこで実際に会った感想を述べたのでござろう。

なお孔子の諸国遍歴は14年に及び、衛→曹→宋→鄭→陳→衛→陳→蔡→楚→衛の順で回った後、BC484年(孔子69歳)に魯に帰国しBC479年(孔子74歳)で亡くなられているのでござる。

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