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孔子の論語 泰伯第八の二十 周の徳は、其れ至徳と謂うべきのみ

孔子の論語の翻訳207回目、泰伯第八の二十でござる。

漢文
舜有臣五人、而天下治、武王曰、予有亂臣十人、孔子曰才難、不其然乎、唐虞之際、於斯爲盛、有婦人焉、九人而已、三分天下有其二、以服事殷、周之徳、其可謂至徳也已矣。

書き下し文
舜(しゅん)、臣(しん)五人ありて、天下治まる。武王(ぶおう)曰わく、予(わ)れに乱臣十(らんしん)人ありと。孔子曰わく、才難(かた)しと、其れ然(しか)らずや。唐虞(とうぐ)の際、斯(ここ)に於(おい)て盛(さか)んと為(な) す。婦人あり、九人のみ。天下を三分して其の二を有(たも)ち、以て殷(いん)に服事(ふくじ)す。周の徳は、其れ至徳(しとく)と謂(い)うべきのみ。

英訳文
Emperor Shun had five prominent vassals, and he ruled the country peacefully. King [emperor] Wu said, “I have ten outstanding vassals.” Confucius said, “It is difficult to gather talents. Yes, indeed. Comparatively, there were many talented people at emperor Shun’s, emperor Yu’s and King Wu’s reigns. But one of King Wu’s vassals was a woman (his mother). So he had only nine outstanding vassals, to put it more precisely. King Wen ruled two thirds area of the country with those vassals when he was a mere feudal lord of Yin dynasty. So I think the virtue of Zhou dynasty is supreme.”

現代語訳
舜(しゅん)には卓越した家臣が5人いて、天下はよく治まっていた。武王は「私には素晴らしい家臣が10人もいる」と言った。
そして孔子はおっしゃいました、
「人材を得るのは難しいというが、その通りだな。舜や禹の時代の他には周の始めこそ多くの人材を輩出したものだが、武王の家臣の一人は女性なので、正確には9人だけだ。(文王の時代にはその家臣の働きによって)天下の三分の二を支配していたのに、それでも殷に従っていた。それゆえに周王朝の徳こそは最高のものだと言えるだろう。」

Translated by へいはちろう

(しゅん:中国の伝説上の聖帝、詳細は八佾第三の二十五に。)

武王(ぶおう:周の創始者、詳細は八佾第三の二十五に。)

文王(ぶんおう:姓は姫、名は昌。武王の父、殷の時代の西伯、周建国後に文王と諡号される。儒学においては仁徳の王の模範として敬われる。)

ちなみに舜の臣とは禹(う)・棄(き)・契(せつ)・皐陶(こうよう)・伯益(はくえき)の5人で、武王(文王)の臣とは周公旦(しゅうこうたん)・邵公爽(しょうこうせき)・太公望(たいこうぼう)・畢公(ひつこう)・栄公(えいこう)・太顛(たいてん)・闔妖(こうよう)・散宜生(さんぎせい)・南宮括(なんきゅうかつ)・太似(たいじ)の10人でござる。親族が多いのは古代ならではでござるな。

文王にはそれは立派な逸話がたくさん残っているのでござるが、国力から考えれば天下の3分の2を支配していたというのは言いすぎで、統治がおよんだ範囲は実質半分にも満たなかったでござろう。殷王朝の支配力が弱まったために相対的に勢力が強まったとはいえ、武王の代に諸侯が会盟して周を盟主と仰ぐまでは周一国で殷を滅ぼすのは不可能だったでござろう。

ついでにいうと祖父である古公亶父(ここうたんぽ)の「季歴の子の時代に周は栄える」という予言や、名軍師である太公望を召抱えたこと、殷の制度を改めて周独自の法律や暦などの諸制度を整えたこと、古公亶父や季歴に王号を諡号したこと、そして何より諸侯に対して紂王討伐を呼びかけた事を考えれば、孔子の評価は身びいきが過ぎると言わざるを得ないでござる。

文王が立派な人物だった事は間違いないでござるが、形式的に殷の臣下であっただけで、もう少し長生きしていれば確実に武王ではなく文王が殷を滅ぼしていたでござろう。

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孔子の論語 泰伯第八の十九 大なるかな、尭の君たるや

孔子の論語の翻訳206回目、泰伯第八の十九でござる。

漢文
子曰、大哉、尭之爲君也、巍巍乎唯天爲大、唯尭則之、蕩蕩乎民無能名焉、巍巍乎其有成功也、煥乎其有文章。

書き下し文
子曰わく、大なるかな、尭(ぎょう)の君たるや。巍巍(ぎぎ)として唯(た)だ天を大なりと為す。唯だ尭(ぎょう)これに則(のっと)る。蕩々(とうとう)として民(たみ)能(よ)く名づくること無し。巍巍として其れ成功あり。煥(かん)として其れ文章(ぶんしょう)あり。

英訳文
Confucius said, “What a great sovereign emperor Yao was! He served only the heaven majestically, and only he followed the heaven at the time. His reign was so peaceful as people could not express it with any words. He achieved the majestic success, and developed brilliant culture.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「尭(ぎょう)は何と偉大な統治者であったことだろう!彼は堂々として天のみに仕え、彼の時代には彼だけが天に従っていたのだ。彼の統治はとても穏やかで人々は何と言い表して良いか解らない程であった。彼の統治は偉大な成功を治め、文明と文化を発展させたのだ。」

Translated by へいはちろう

(堯、ぎょう:中国の伝説上の聖帝、史記の五帝本紀には以下の様に記されている。)

帝堯(ていぎょう)は、放勲(ほうくん)といい、帝嚳(ていこく)の子である。仁徳は万物に行き渡り、知は神のごとしであった。また、質素な日常で九族を親しみ、人々の才能に応じて官職を与えて規制した。義氏、和氏に命じて天の理に従って日月星を数えさせて、四時の運行に則り、種まき、収穫の時を人民に授けた。義仲を郁夷に移住させ、日の出の時刻を計って春耕の次第をたてさせた。義氏の三子、義叔を南交に移住させ、夏の農耕を定めさせた。義叔は、昼の最も長い日を夏至と定めた。和氏の二子、和仲を西土に移住させ、秋の収穫のてだてを導いた。和仲は、昼と夜の長さの等しい日を秋分と定めた。和氏の三子、和叔を北方に移住させた。和叔は、昼が最も短い日を冬至を定めた。1年を366日に定め、3年に一回閏月をおいて四時を正した。 帝堯は、即位して70年たって舜を見出し、その20年後年老いて引退し、舜に天子の政を行わせ、さらに28年後崩じた。

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孔子の論語 泰伯第八の十八 巍巍たるかな、舜禹の天下を有てるや

孔子の論語の翻訳205回目、泰伯第八の十八でござる。

漢文
子曰、巍巍乎、舜禹之有天下也、而不與焉。

書き下し文
子曰わく、巍巍(ぎぎ)たるかな、舜禹(しゅん・う)の天下を有(たも)てるや。而(しか)して与(あずか)らず。

英訳文
Confucius said, “How majestic sovereigns emperor Shun and emperor Yu were! They left government to capable vassals even though they were the greatest men of power.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「舜(しゅん)と禹(う)は何と荘厳として偉大な統治者であったことだろう!天下を望むままに出来る権力を持ちながら有能な部下に仕事をまかせたのだから。」

Translated by へいはちろう

舜・禹(しゅん・う:中国の伝説上の聖帝、詳細は八佾第三の二十五に。)

孔子はこの様に君主が有能な部下に仕事を任せて、功績によっては国権と位を委譲するという禅譲(ぜんじょう)を善しとしたのでござるが、春秋戦国時代にはそれを真に受けて実行し、ついに国を家臣に奪われた諸侯もいたのでござる。

彼らは聖帝と呼ばれる舜にならって名誉欲にかられて名君として歴史に名を残したつもりであったかも知れないでござるが、史記をはじめ後世の歴史家の彼らへの評価は「無能なお人よし」という辛辣なものでござる。

拙者もまったく同意見でござる。

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孔子の論語 泰伯第八の十七 学は及ばざるが如くするも、猶おこれを失わんことを恐る

孔子の論語の翻訳204回目、泰伯第八の十七でござる。

漢文
子曰、學如不及、猶恐失之。

書き下し文
子曰わく、学は及ばざるが如くするも、猶(な)おこれを失わんことを恐る。

英訳文
Confucius said, “Your should continue to pursue study till the end. But at the same time, you should be afraid of losing scholarship that you learned.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「学問というものは追い求めても追いきれずに学び続けなければならないものであり、しかし同時にそれまでに得た学識が失われてしまわないように注意しなければならないものでもある。」

Translated by へいはちろう

拙者の理想は老いても学び続けて精進し、老いも境地に達しようという時には学び得た事を全て忘れ去って幽玄へ至る事でござる。その前に事故や病気に合わないように注意せねばならないでござるな。

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孔子の論語 泰伯第八の十六 悾悾にして信ならずんば、吾これを知らず

孔子の論語の翻訳203回目、泰伯第八の十六でござる。

漢文
子曰、狂而不直、侗而不愿、悾悾而不信、吾不知之矣。

書き下し文
子曰わく、狂にして直ならず、侗(とう)にして愿(げん)ならず、悾悾(こうこう)にして信ならずんば、吾これを知らず。

英訳文
Confucius said, “If a person is idealistic but not single-minded, naive but not serious or simple-minded but not honest, I cannot teach him.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「理想家でありながら移り気でコロコロと主張が変わり、無邪気でありながら真面目なところがなく、素朴な心を持っているのに誠実ではない、そんな人間は私にはどうしようもない。」

Translated by へいはちろう

こういう人物は周囲の人々を振り回しそうでござるな。みんなに迷惑をかけながら本人にはまったく悪気がない、悪気がないので反省もしない、そんな光景が目に浮かぶようでござる。

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