孔子の論語の翻訳300回目、顔淵第十二の十一でござる。
漢文
齊景公問政於孔子、孔子對曰、君君。臣臣、父父、子子、公曰、善哉、信如君不君、臣不臣、父不父、子不子、雖有粟、吾豈得而食諸。
書き下し文
斉の景公(けいこう)、政(まつりごと)を孔子に問う。孔子対(こた)えて曰わく、君(きみ)、君たり、臣(しん)、臣たり、父(ちち)、父たり、子(こ)、子たり。公の曰わく、善いかな。信(まこと)に如(も)し君、君たらず、臣、臣たらず、父、父たらず、子、子たらずんば、粟(ぞく)ありと雖(いえど)も、吾(われ)豈(あ)に得て諸(こ)れを食らわんや。
英訳文
Marquis Jin of Qi asked Confucius about politics. Confucius replied, “Monarch must behave like monarch. Vassals must behave like vassals. Father must behave like father. Children must behave like children.” Marquis said, “Definitely right. If they did not behave like themselves, I could eat nothing even though there is food.”
現代語訳
斉の景公(けいこう)が政治について孔子に尋ねました。孔子は、
「君主は君主らしく、臣下は臣下らしく、父は父らしく、子は子らしく振舞うことが重要です。」
と答えられ、景公は、
「そのとおりだ。もしも本当に彼らがそれぞれの役目を果たさずに勝手な事をしだしたら、たとえ食べ物があってもそれを食べる事が出来なくなるだろう。」
と言いました。
Translated by へいはちろう
景公(けいこう:斉の25代目、在位BC547-BC490年。姓は姜、氏は呂、名は杵臼。兄の荘公が崔杼に弑られたあと、崔杼に擁立されて斉公となる。はじめは崔杼を宰相に据えて国庫を浪費し民に重税を課して苦しめたが、後に晏嬰を宰相として据え、軍事面では晏嬰の推薦により司馬穰苴を抜擢した。斉は景公のもとで覇者桓公の時代に次ぐ第2の栄華期を迎え、孔子も斉での仕官を望んだほどである。しかし、これらの斉の繁栄は晏嬰の手腕によるもので、景公自身は贅沢を好んだ暗君として史書に描かれる場合が多い。)
孔子の人生のターニングポイントの一つである斉の景公に仕官を求めて面会したときのエピソードでござるな。公冶長第五の十七でも説明したように、このとき斉に仕官が適って稀代の名宰相、晏嬰と協力することができていたら、孔子の人生はいったいどうなっていたでござろうか。
景公は先代である異母兄、荘公を家臣である崔杼に殺されて傀儡として擁立されて斉公となっているために、孔子のとなえる「身分秩序を正すべし」という理念に賛同するところは大きかったはずでござる。実際景公は孔子に領地を与えて召抱えようとしているのでござる。
しかし孔子はこの時まだ何の実績もなく、また世間の儒者に対するイメージから晏嬰が孔子を迎え入れようとする景公を諌めて孔子の若き理想は挫折するのでござる。
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