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孔子の論語 顔淵第十二の二十一 一朝の忿りに其の身を忘れて以て其の親に及ぼすは、惑いに非ずや

孔子の論語の翻訳310回目、顔淵第十二の二十一でござる。

漢文
樊遅從遊於舞雩之下、曰、敢問崇徳脩慝辨惑、子曰、善哉問、先事後得、非崇徳與、攻其惡無攻人之惡、非脩慝與、一朝之忿忘其身以及其親、非惑與

書き下し文
樊遅(はんち)従いて舞雩(ぶう)の下(もと)に遊ぶ。曰わく、敢えて徳を崇(たか)くし慝(とく)を脩(おさ)め惑いを弁(べん)ぜんことを問う。子曰わく、善いかな、問うこと。事を先にして得ることを後にするは、徳を崇くするに非(あら)ずや。其の悪を攻(せ)めて人の悪を攻むること無きは、慝を脩むるに非ずや。一朝(いっちょう)の忿(いきどお)りに其の身を忘れて以て其の親(しん)に及ぼすは、惑いに非ずや。

英訳文
Fan Chi accompanied Confucius to the stage of praying for rain. Fan Chi asked, “How can I enhance my virtue ,exorcise my malice and clear puzzlement away?” Confucius replied, “Good question. If you act before thinking of your benefit, you can enhance your virtue. If you criticize yourself without criticizing others, you can exorcise your malice. If you lose control of yourself with anger and involve your family, that is exactly puzzlement.”

現代語訳
樊遅(はんち)を伴って雨乞いの舞台に出かけたときに樊遅が尋ねました、
「どのようにしたら自分の徳を高め、邪心を払って、惑いを取り除く事ができるでしょうか?」
孔子は、
「良い質問だ。行動を先にして利益を後回しにすれば、徳を高める事ができるだろう。自らの行いを反省して他人のあら探しをしなければ、邪心を払う事ができるだろう。一時の怒りにその身を忘れて家族まで巻き込んでしまうというのは、惑いと言えるだろうな。」
と答えられました。

Translated by へいはちろう

樊遅(はんち:姓は樊、名は須、字は子遅。孔子の弟子の一人。為政第二の五では孔子の御者をしている。)

顔淵第十二の十では子張が同じ様な質問をしているのでござるが、同じ事を聞いても人によって孔子の返答が違うのが論語の面白いところでござるな。

しかし樊遅に対しても子張に対しても惑いとは何かという答え方で、惑いを取り除く方法については答えていない点も興味深いところでござる。孔子は人の惑いを取り除くことなどできないと思っていたのでござろうか。しかし為政第二の四ではニュアンスは違えど「四十にして惑わず。」とおっしゃっているのでござる。この辺に惑いを取り除く為にはどうすれば良いかが隠されているのでござろう。

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孔子の論語 顔淵第十二の二十 質直にして義を好み、言を察して色を観、慮って以て人に下る

孔子の論語の翻訳309回目、顔淵第十二の二十でござる。

漢文
子張問、士何如斯可謂之達矣、子曰、何哉、爾所謂達者、子張對曰、在邦必聞、子曰、是聞也、非達也、夫達者、質直而好義、察言而觀色、慮以下人、在邦必達、在家必達、夫聞者色取仁而行違、居之不疑、在邦必聞、在家必聞。

書き下し文
子張(しちょう)問う、士(し)何如(いか)なれば斯(こ)れを達(たつ)と謂うべき。子曰わく、何ぞや、爾(なんじ)の所謂(いわゆる)達とは。子張対(こた)えて曰わく、邦(くに)に 在(あ)りても必ず聞こえ、家に在りても必ず聞こゆ。子曰わく、是(これ)聞(ぶん)なり、達に非(あら)ざるなり。夫(そ)れ達なる者は、質直(しつちょく)にして義を好み、言(げん)を察して色を観、慮(はか)って以て人に下る。邦に在りても必ず達し、家に在りても必ず達す。夫れ聞なる者は、色に仁を取りて行いは違(たが)い、これに居りて疑わず。邦に在りても必ず聞こえ、家に在りても必ず聞こゆ。

英訳文
Zi Zhang asked, “What sort of person is called ‘a master’?” Confucius said, “How do you think?” Zi Zhang replied, “I think a master must have a good reputation both in his country and in his hometown.” Confucius said, “Such a person is not a master. He is just popular. I think a master must be honest, value justice, listen to others carefully, read others’ faces and be humble. He must do so both in his country and in his hometown. A person who is just popular looks benevolent. But his deeds differ from benevolence. He does not suspect his inconsistency. He just has a good reputation both in his country and in his hometown.”

現代語訳
子張(しちょう)が尋ねました、
「士人たるもの、どのようであれば “達した” と言えるでしょうか?」
孔子が、
「お前はどう思うかね?」
と聞くと、子張は、
「国政に携われば評判を得て、地元に帰っても評判を得る。そんな人物を “達した” と思います。」
と答えました。しかし孔子は、
「そんなものでは “達した” とは言えない、ただ人気者なだけだ。そもそも “達した” 人物とは実直にして正義を重んじ、人の言葉を注意深く聞いて表情をよく読み、遠慮してへりくだった態度でいるものだ。国政に携わってもこの態度で望み、地元に帰ってもこの態度を貫く。それに比べて人気者なだけの人物とは、うわべだけ仁徳があるように見せかけて、その行動は仁徳とは違う。そんな自分に矛盾すら感じない。しかし人気取りが上手いので国政に携われば評判を得て、地元に帰っても評判を得てしまうのだ。」
とおっしゃいました。

Translated by へいはちろう

子張(しちょう:姓は顓孫、名は師、字は子張。詳細は公冶長第五の十九に。)

人を評判だけで評価してはいけないという事でござるな。特に政治家や芸術家というのは生前の評価よりも死後の評価の方が重要だったりするものでござる。

ただ結局のところ現在生きている人間を客観的に判断するには評判に頼るしかないのが現実で、それは漢の時代の官吏登用における郷挙里選制に色濃く表れているでござる。その後は九品官人法を経て科挙(つまり儒学的評判から儒学的知識を重んじるようになった)で人を評価するようになるのでござるが、これはこれで問題があるのは致し方のない事でござる。

人間が人間を評価するのに完璧な方法などは無いと拙者は思う次第。

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孔子の論語 顔淵第十二の十九 草、これに風を上うれば、必らず偃す

孔子の論語の翻訳308回目、顔淵第十二の十九でござる。

漢文
季康子問政於孔子、曰、如殺無道以就有道、何如、孔子對曰、子爲政、焉用殺、子欲善而民善矣、君子之徳風也、小人之徳草也、草上之風必偃。

書き下し文
季康子(きこうし)、政(まつりごと)を孔子に問いて曰わく、如(も)し無道(むどう)を殺して以(もっ)て有道(ゆうどう)に就(つ)かば、何如(いかん)。孔子対(こた)て曰わく、子、政を為すに、焉(な)んぞ殺(さつ)を用いん。子、善を欲すれば、民善ならん。君子の徳は風なり、小人の徳は草なり。草、これに風を上(くわ)うれば、必らず偃(ふ)す。

英訳文
Ji Kang Zi asked Confucius about politics, “How about killing the criminals to make the people obey the right path?” Confucius replied, “Why do you need to kill the people to govern them? If you aspire goodness, they have it. A nature of gentlemen is a wind. A nature of others is grass. Grass must bow when the wind blows.”

現代語訳
季康子(きこうし)が孔子に政治について尋ねて言いました、
「人々を正道につかせるために、無道の者達を殺してはいかがでしょうか?」
孔子は、
「どうして政治を行うのに人々を殺す必要があるのです。あなたが善を追い求めれば人々は善くなります。人々の手本たるべき君子の性質は風です、他の人々の性質は草です。草の上を風が吹けばおのずから頭を垂れるものです。」
と答えられました。

Translated by へいはちろう

季康子(きこうし:魯の宰相、姓は季孫、名は肥、康子は諡(おくりな)。魯の実質的支配者である三桓氏の筆頭。)

孔子の徳治主義があらわれている文章でござるな。季康子に対して「人々の前にまずあなたを正しなさい。」と前回・前々回につづいておっしゃってるのでござる。

ただ孔子は刑罰だけに頼って統治を行うことに反対ではあったが、刑罰そのものを完全否定していたわけではないので極論に取るのは注意でござる。実際孔子が魯の大司寇(警察・司法責任者)を務めていたときには少正卯という大夫を就任7日目に処刑しているのでござる。もちろん盗賊の類も捕らえて刑を与えたはずでござる。

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孔子の論語 顔淵第十二の十八 苟も子にして不欲ならば、これを賞すと雖ども竊まざらん

孔子の論語の翻訳307回目、顔淵第十二の十八でござる。

漢文
季康子患盗、問於孔子、孔子對曰、苟子之不欲、雖賞之不竊。

書き下し文
季康子(きこうし)、盗(とう)を患(うれ)えて孔子に問う。孔子対(こた)えて曰わく、苟(いやしく)も子にして不欲(ふよく)ならば、これを賞(しょう)すと雖(いえど)も竊(ぬす)まざらん。

英訳文
Ji Kang Zi asked Confucius how to prevent robbery and thievery. Confucius replied, “If you had no self-interest, people would not rob or thieve even if you awarded robbers and thieves prizes.”

現代語訳
季康子(きこうし)が盗賊の事を心配して孔子に尋ねました。孔子は、
「もしあなたが私利私欲を持たなければ、たとえ盗賊に賞金を与えたとしても人々は盗みを働かなくなるでしょう。」
と答えられました。

Translated by へいはちろう

季康子(きこうし:魯の宰相、姓は季孫、名は肥、康子は諡(おくりな)。魯の実質的支配者である三桓氏の筆頭。)

前回の文と意味するところはほぼ同じでござる。少し極端な印象をうけるのでござるが、季康子に対して皮肉として言ったような感じもあるでござるな。

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孔子の論語 顔淵第十二の十七 子帥いて正しければ、孰か敢えて正しからざらん

孔子の論語の翻訳306回目、顔淵第十二の十七でござる。

漢文
季康子問政於孔子、孔子對曰、政者正也、子帥而正、孰敢不正。

書き下し文
季康子(きこうし)、政(まつりごと)を孔子に問う。孔子対(こた)えて曰わく、政とは正(せい)なり。子帥(ひき)いて正しければ、孰(たれ)か敢(あ)えて正しからざらん。

英訳文
Ji Kang Zi asked Confucius about politics. Confucius replied, “It is to walk the right path. If you tread on the right path, all the people walk the same path with you.”

現代語訳
季康子(きこうし)が孔子に政治について尋ねました。孔子は、
「政治とは正道を行くことです。もしあなたが率先して正道を行けば、誰もがあなたと同じ正道を行くでしょう。」
と答えられました。

Translated by へいはちろう

季康子(きこうし:魯の宰相、姓は季孫、名は肥、康子は諡(おくりな)。魯の実質的支配者である三桓氏の筆頭。)

孔子の政治思想は今回の文に集約されると言っても過言ではないくらいでござるな。

つまり人々の上に立つ人間が正しい行いをする事によって周囲の人間を正しく導くというのが孔子の考えで、その正しい行いの根拠である仁の心と礼の教養を兼ね備えた人間を君子と呼び、孔子は彼らを学問によって育てることに生涯を費やしたのござる。

そして多くの君主・貴族たちが孔子の教えに心酔したものの、残念ながら彼らの実際の行動が孔子の理想に適うことが無かったのが皮肉といえば皮肉でござるな。

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