孔子の論語 公冶長第五の十八 臧文仲、蔡を居く

孔子の論語の翻訳110回目、公冶長第五の十八でござる。

漢文
子曰、臧文仲居蔡、山節藻梲、何如其知也。

書き下し文
子曰わく、臧文仲(ぞうぶんちゅう)、蔡(さい)を居(お)く。節(せつ)を山にし梲(せつ)を藻(も)にす、何如(いかん)ぞ其(そ)れ知(ち)ならん。

英訳文
Confucius said, “Zang Wen Zhong had a carapace of a tortoise from Cai, even though he was a mere vassal. Furthermore, he carved a mountain pattern on capitals of pillars and a algae pattern on short pillars above beams, as if he were an emperor. He was far from a wise man.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「臧文仲(ぞうぶんちゅう)は諸侯の一家臣の身でありながら亀卜(きぼく)用の甲羅を所有していた。さらに柱の桝形には山の模様を、棟木を支える卯建(うだつ)には藻の模様を彫刻していた(これらは天子のみに許されるのに)。どうして彼が智者と言えるだろうか。」

Translated by へいはちろう

臧文仲(ぞうぶんちゅう:姓は臧孫、名は辰、字は仲、文は諡(おくりな)。魯の宰相。)

八佾第三の二十二で管仲を批判したのと同じ理由でござる、たとえ後世に残る功績をたてても分際を弁えぬ行動をすると智者では無い、つまり孔子の言う「智」とは仁礼に基づき善悪を区別する知恵の事を指すのでござる。管仲は憲問第十四でフォローされているのでござるが、臧文仲は衛霊公第十五の十四でも「位を盗む者(身分に応じた功績の無い者)」と批判しているでござる。

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孔子の論語 公冶長第五の十七 晏平仲、善く人と交わる、久しくしてこれを敬す

孔子の論語の翻訳109回目、公冶長第五の十七でござる。

漢文
子曰、晏平仲善與人交、久而人敬之。

書き下し文
子曰わく、晏平仲(あんぺいちゅう)、善く人と交わる。久しくしてこれを敬す。

英訳文
Confucius said, “Yan Ping Zhong knew how to associate with people very well. He also behaved respectfully toward his old friends as well.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「晏平仲(あんぺいちゅう)は人付き合いの要領を心得ていた。長い付き合いの友人に対しても敬意を払ったのだから。」

Translated by へいはちろう

晏平仲(あんぺいちゅう:斉の名臣「晏嬰(あんえい)」の事。姓は晏、名は嬰、字は仲、平は諡(おくりな)。晏子(あんし)とも呼ばれ、言行録である晏子春秋が死後に編纂される。斉の管仲と共に春秋時代の代表的な名宰相の一人。史記の作者である司馬遷は「晏嬰の時代に生まれていたら彼の御者になりたい」とまで言って尊敬している。)

さて後世の人々に晏子(あんし)と呼ばれて尊敬される晏嬰でござるが、この人物は孔子の人生に大きな影響を与えた人物の一人でござる。

孔子が理想を叶えんと大国である斉を訪れて景公に仕官しようとした時の事でござる。景公が孔子に政治について尋ねると孔子は「君は君、臣は臣、父は父、子は子としての道をそれぞれ尽くすことが政治の肝要でございます。そして財政に於いてはひたすら倹約に努めなければなりません。」と答え、景公はすっかり感心して孔子に領地を与えて大夫として召抱えようとしたのでござる。しかし晏嬰は景公を諌めて以下の様に言ったそうでござる。

「儒者は滑稽多弁ですから、 そのことばを手本としてはなりません。傲慢不遜で自分の思いのままにふるまうので、低い身分に置くこともなりません。周の王室はすでに衰微し、礼楽も残欠して、久しい年月を経ました。しかるに今、孔子は容儀修飾を盛大にし、登降の礼儀や歩行の節度を煩雑にしています。 これを採用するのは、微賤な細民を救済する急務ではありません」

そして結局景公は孔子を召抱える事をやめたのでござる。当時の斉は晏嬰によって倹約政策が行われていたのでござるが、そこで倹約を説いた孔子の言葉と学説の矛盾を指摘したのでござる。儒学者たちが葬礼を豪華にして国の財産を浪費している事は墨子にも批判されているでござるな。但し晏嬰は孔子個人に対しては敬意を払っており、孔子の政策に対して異論を述べたのでござる。

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孔子の論語 公冶長第五の十六 子産を謂わく、君子の道四つ有り

孔子の論語の翻訳108回目、公冶長第五の十六でござる。

漢文
子謂子産、有君子之道四焉、其行己也恭、其事上也敬、其養民也惠、其使民也義。

書き下し文
子、子産(しさん)を謂(い)わく、君子の道四つ有り。其の己(おのれ)を行なうや恭(きょう)、其の上(かみ)に事(つか)うるや敬(けい)、其の民を養うや恵(けい)、其の民を使うや義。

英訳文
Confucius said, “Zi Chan had four virtues. He was reverent, royal, merciful, and reasonable.”

現代語訳
孔子が子産(しさん)についておっしゃいました、
「彼は四つの美徳を備えていた。行いは恭しく、主君に忠実で、民衆には慈愛をそそぎ、民衆を使役する時には道理を重んじた。」

Translated by へいはちろう

子産(しさん:姓は姫、氏は公孫、名は僑、字は子産。鄭の卿(大臣)。斉の管仲などと共に春秋時代の名臣の代表の一人。中国史上で初めての成文法を作った。孔子は子産を非常に尊敬しており、論語の中で度々賞賛している。)

上記の通りこの子産は中国史上で初めての成文法(文章として規定された法律)を制定した人物でござる。それまでは文章として規定されない慣習法や不文法によって統治がなされていたのでござるが、結果として法が恣意的に運用されるのを避けるために青銅の鼎に法文を鋳込んだと伝えられているでござる。

この事がどのくらいすごいかといえば、とてもすごい事でござる。法律が(とくに行政法が)文章として形になっていればこそ、人々は法律と照らし合わせて行政を批判できるのでござる。要するに「政治はお偉い雲の上の人が神さまと相談してやってる訳の解らないもの」で無くしてしまったのでござる。

当然反発は強く、晋の宰相である叔向からは「あなたが生きている間は良いですが、あなたが死んだ後はどうなるのですか。滅んだ国には法律が多いと言いますが、まさしくそれに当てはまるのではないのですか。」と言われ、子産は「不才の身の私には死後の事など解りません。」と答えたそうでござる。そして叔向が亡くなった後に晋もまた成文法を制定したのでござる。

まぁ成文法のメリット・デメリットは法学の本でも読んでもらうとして、徳治主義を主張する孔子が子産を尊敬していたという事は中々に興味深い事でござるな。つまりは徳治や法治などという言葉は孔子にとっては大した価値をもっておらず、その事績が仁に叶っていれば良いという事でござろうか。

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孔子の論語 公冶長第五の十五 敏にして学を好み、下問を恥じず、是を以てこれを文と謂うなり

孔子の論語の翻訳107回目、公冶長第五の十五でござる。

漢文
子貢問曰、孔文子何以謂之文也、子曰、敏而好學、不恥下問、是以謂之文也。

書き下し文
子貢(しこう)問うて曰わく、孔文子(こうぶんし)、何を以(もっ)てかこれを文と謂(い)うや。子曰わく、敏(びん)にして学を好み、下問(かもん)を恥じず、是(ここ)を以てこれを文と謂うなり。

英訳文
Zi Gong asked, “Why was Kong Wen Zi called “Wen (文:literal or study)” after his death?” Confucius replied, “He was smart and liked learning. Furthermore, he didn’t hesitate to ask his inferiors about things he didn’t know. So he was called “Wen” in his name.”

現代語訳
子貢(しこう)が、
「なぜ孔文子(こうぶんし)は “文” と言う立派な諡(おくりな)をもらったのでしょうか?」
と尋ね、孔子は、
「彼は利発でありながら学問を好み、さらに解らない事があったら目下の者に尋ねる事すら恥としなかった。(それだけ学問を好んだので)だから彼は死後に “文” という諡をもらったのだ。」
と答えられました。

Translated by へいはちろう

孔文子(こうぶんし:姓は孔、名は圉、字は叔圉、文子は諡(おくりな)。衛の大夫。)

諡(おくりな)とは主に皇帝・王侯などの死後に生前の徳を称えて贈られる称号の事でござる。日本も含めアジア各地では偉い人の名前を直接呼ぶ事は不敬とされるため、この様な風習があるのでござる。今でも部長や社長、先輩などと目上の人は敬称で呼んで名前を呼ぶ事はあまりないでござるな。中でも「武」や「文」などは格式の高い諡でござる。実はこの孔文子はあまり良い評判が残っておらず、だから子貢は疑問に思ったのでござる。そこで孔子は孔文子が学問をとても好んだ例を挙げて理由としたのでござる。

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孔子の論語 公冶長第五の十四 未だこれを行うこと能わざれば、唯だ聞く有らんことを恐る

孔子の論語の翻訳106回目、公冶長第五の十四でござる。

漢文
子路有聞、未之能行、唯恐有聞。

書き下し文
子路(しろ)、聞くこと有りて、未(いま)だこれを行うこと能(あた)わざれば、唯(た)だ聞く有らんことを恐る。

英訳文
Zi Lu was afraid of hearing a new lesson before practicing a previous lesson completely.

現代語訳
子路(しろ)は前に聞いた教えを実践できるようになるまでは、新しい教えを聞く事を恐れた。

Translated by へいはちろう

子路(しろ:姓は仲、名は由、字は子路。孔門十哲の一人。詳細は公冶長第五の七に。)

なんという素直な人でござろうか、こういった素直さには羨ましいのを通り越して憧れさえ抱いてしまうでござるな。

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