学問のすすめ 二編 段落二 その一 有様の等しきを云うに非ず、権理通義の等しきを云うなり

学問のすすめの翻訳、二編 段落二 その一でござる。

現代語訳

 だから今、人と人とを比べたなら、これは同等と言わざるを得ない。ただしその同等とはその有様が等しいという事ではなく、生まれ持った権利が等しいという事である。人の有様について言うならば、貧富、強弱、頭の良し悪しなどにも大きな差があるし、大名や華族などといってお屋敷に住んで綺麗な服を着ておいしいものを食べる者がいれば、肉体労働者として路地裏の借家に住んでその日の衣食に困る者もいる。あるいは才知豊かで政府の役人や商人になって天下を動かす者もあれば、知恵や分別を持たずに一生飴やお菓子を売る者もいる。あるいは強い相撲取りがいれば、弱いお姫様もいる。いわゆる雲泥の違いを生じているのだが、その一方でそれぞれの生まれ持った権利に関して言うならば、やはり同等でほんの少しの違いも無い。その権利とは、その生命を重んじ、その財産を守り、その立場や名誉を大切にするという人として当たり前の権利である。

英訳文

From the point of this view, everyone is certainly equal. However, this does not mean the equality of status. It means the equality of rights. When it comes to status, there are big differences among people, such as the poor and the rich, the strong and the weak, and the wise and the fool. There are feudal lords and the aristocracy who live in a mansion, wear good clothes and eat good food; manual workers who live in a small rented house in a back street and are in need of food and clothes; talented people who become bureaucrats or merchants and have power; incompetent people who sell candies for life; strong sumo wrestlers; and weak princesses. However, when it comes to human rights, there is no difference among people. The rights are: the right to life, the right to protect one’s property and the right to defend one’s honor.

Translated by へいはちろう

今回の文にも非常に翻訳の難しい言葉がでてくるのでその話をするでござる。

福沢諭吉は英語の “right” という概念を日本語で表現するにあたって原文では「権理通義」という言葉を使っているのでござる。現在使われる「権利」という訳語は同時代の思想家の西周(にしあまね)によるものでござるな。そこで「理」という言葉の持つ意味ついては二編の端書の時に解説したので、今回は「利」という言葉の持つ意味ついて少し語らせていただく所存でござる。

「利」というといかにも自己の利益ばかり追求するような悪いイメージを抱く人も多かろうと思うのでござるが、それは福沢諭吉が嫌悪した儒学の影響でござる。かつて先秦時代の中国には「兼愛交利」という、より広い視点からみた利益の重要性を説いた墨家という思想もあったのござるが、朱子学全盛の江戸時代の日本において「利」を求める事は、それが自分のためであろうと他人のためであろうと、ただそれだけで悪いことであるとされていたのでござる。この辺の考え方は現代人には少々理解しがたいかも知れないでござるが、単純に言うなら「公共の利益」という考え方が無かったと思っていただければよろしい。

これに対し福沢自身はといえば、これまでに繰り返し述べられているように「他人に迷惑をかけない限り」、自分の利益を追求する事を否定してはいないし、むしろそれが「通義」であり「権理」であると強調さえしているでござるな。そもそもベンサムやミルの功利主義の延長線上に当時の民主主義があるからには、人々が「利」を求める事を否定したらそれは民主主義の否定でござる。また学問のすすめだけに限らず福沢の思想は功利主義的傾向が強く、そういう意味では福沢も “right” を「権利」と訳してもよかったはずでござる。

しかし上述の通り当時の「利」という言葉には大きな誤解を生じる可能性があった。だから福沢はより普遍的な意味を持たせるために「権理通義」、すなわち「理」と「義」という朱子学の影響を受けた人々にも受け入れやすい言葉をその訳語に用いたのでござろう。福沢はその思想の根幹をなす “right” が過小評価される事を恐れたのではないでござろうか。

実際の「権利」が明治政府とその国民にどういう形で受け入れられていったかについては、ここで語るつもりはないでござる。しかし現代に生きる日本人にとっては当たり前すぎてその大切さを忘れがちな「権利」について、少し考えてみるというのも良いのではないでござろうか。

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