ちょんまげ翻訳 和英」カテゴリーアーカイブ

孔子の論語 子罕第九の二十二 苗にして秀でざる者あり、秀でて実らざる者あり

孔子の論語の翻訳230回目、子罕第九の二十二でござる。

漢文
子曰、苗而不秀者有矣夫、秀而不實者有矣夫。

書き下し文
子曰わく、苗にして秀(ひい)でざる者あり。秀でて実らざる者あり。

英訳文
Confucius said, “Some seeds don’t bud. Some buds don’t bear fruit.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「いつまでも苗のまま成長しない者もある。成長したとしても実らない者もある。」

Translated by へいはちろう

人間の成長を植物の苗に例えているわけでござるな。

「明日からやろう」ではなく、今日から始めなければいつまでたっても成長しない。また学問に励んで多くの知識を得たとしても、実践しようとしなければ成果を得ることは出来ない。

とても説得力のある言葉で反論の余地がないのでござるが、同じく人間を植物に例えても別の考え方も出来るのだという例を荘子から紹介するでござる。

とても腕の立つ大工が斉の国を旅している途中で巨大なクヌギの神木が祀られているのを見かけた。そのあまりの巨大さに驚いて大工の弟子が大工に言った、「親方、これだけ大きな樹ならば多くの材料がとれますね。」 大工は弟子にこう答えた、「馬鹿を言うな、この樹は何の役にも立たぬ。舟を作ればたちまち沈み、棺桶を作ればたちまち腐り、家具を作ればすぐに壊れ、家の材料にしてもすぐに虫に食われてしまう。何の役にも立たない樹だったからこそ、この様に巨大に成長したのだ。」

大工が家に帰ったその夜にクヌギの樹の精霊が夢の中に現れて大工に言った、「私を役立たずとはよくも言ったものだ。どうせ人間にとって役に立つかどうかで判断したのだろう。なるほど果実をつける樹などはお前たちの役に立つ、だがそれ故に果実をもがれ辱めを受けねばならぬ、邪魔な枝は折られ実をつけなくなれば切り倒される運命だ。人間の役に立つからこそ逆に生命を縮める結果となっているのだ。人間もこうして世の中に有用であろうとして自らの生命を縮める結果を招いている。私は常に役立たずであろうとしてきたおかげで、今こうして生命をまっとうするという真の有用を得ることができたのだ。よく聞け、人間も樹木も何も変わりはしないのだ、お前の様な目先の利益しか頭に無い人間にどうして私の真の価値を推し量れようか。」

翌朝大工がこの話を弟子にしたところ弟子はこう言った、「そんなに無用でありたいのならば、どうして神木なんかになったんですかね?結局人間の役に立っているじゃありませんか。」 大工は弟子に答えた、「別にクヌギが望んだ訳ではあるまい。しかし例え神木になっていなくとも、やはり切り倒されることはなかっただろう。あの樹は真の意味での神木なのだ、その様な存在を人間の価値観で推し量ることが既に間違いだったのだ。」

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孔子の論語 子罕第九の二十一 吾其の進むを見るも、未だ其の止むを見ざるなり

孔子の論語の翻訳229回目、子罕第九の二十一でござる。

漢文
子謂顔淵曰、惜乎、吾見其進也、未見其止也。

書き下し文
子、顔淵(がんえん)を謂(い)いて曰わく、惜しいかな。吾其の進むを見るも、未(いま)だ其の止むを見ざるなり。

英訳文
Confucius talked about Yan Yuan, “His death is a great loss. He continued studying, and never stopped.”

現代語訳
孔子が顔淵(がんえん)についておっしゃいました、
「惜しい人物を亡くしたものだ。彼は日々学問の道に精進し、決して立ち止まることがなかったのだ。」

Translated by へいはちろう

顔淵(がんえん:顔回とも呼ぶ。姓は顔、名は回、字は子淵。孔門十哲の一人。詳細は公冶長第五の九に。)

論語の中でたびたび孔子だけでなく他の弟子達からも惜しまれ、賞賛されている顔淵は多くの他の弟子達からも慕われていたのでござろうな。

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孔子の論語 子罕第九の二十 これに語げて惰らざる者は、其れ回なるか

孔子の論語の翻訳228回目、子罕第九の二十でござる。

漢文
子曰、語之而不惰者、其囘也與。

書き下し文
子曰わく、これに語(つ)げて惰(おこた)らざる者は、其れ回(かい)なるか。

英訳文
Confucius said, “Only Yan Hui listens to my lesson to the last eagerly.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「私の話をいつも最後まで熱心に聞いているのは顔回(がんかい)だけだな。」

Translated by へいはちろう

顔回(がんかい:顔淵とも呼ぶ。姓は顔、名は回、字は子淵。孔門十哲の一人。詳細は公冶長第五の九に。)

今回の文からは顔回の勤勉家ぶりよりも、「人に教える難しさ」が伝わってくるようでござる。

孔子門下3000人の中で孔子の言葉を常に真剣に聞いていたのが顔回ただ一人なのだとしたら、学校で教師の話を真剣に聞く生徒などは一人でもいれば奇跡でござる。

それは別に生徒たちが不真面目なわけではなく、「教える」という行為には自ずから限界があるということでござる。10の物事を教えようとするならば、2~3程度教えて後は自分で考えさせた方が良い結果を生む場合が多いと思うのでござる。

それなのに10の事を教える事を期待される教師の方々は大変でござるな。10の事を習得する事を期待される生徒も大変でござるが。

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孔子の論語 子罕第九の十九 譬えば山を為るが如し

孔子の論語の翻訳227回目、子罕第九の十九でござる。

漢文
子曰、譬如爲山、未成一簣、止吾止也、譬如平地、雖覆一簣、進吾往也。

書き下し文
子曰わく、譬(たと)えば山を為(つく)るが如(ごと)し。未(いま)だ一簣(いっき)を成さざるも、止(や)むは吾(わ)が止むなり。譬えば地を平らかにするが如し。一簣を覆(ふく)すと雖(いえど)も、進むは吾が往(ゆ)くなり。

英訳文
Confucius said, “For instance, it is like making a mountain. If you quit it just before finished, it will be your fault. For instance, it is like smoothing the ground. If you smoothed only a bucket of soil, it is a fruit of your labor.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「学問の道というのは例えるならば山を作る作業みたいなものだ。もう少しで完成という時に止めてしまったとしたら、他の誰でも無い自分が悪いのだ。例えるならば地面をならす作業みたいなものだ。たったバケツ一杯分の土をならしたとしても、他の誰でも無い自分の努力の成果なのだ。」

Translated by へいはちろう

「人生は重い荷物を背負って坂道を行くがごとし」というのは徳川家康の残した言葉でござるが、忍耐の末に日本に太平の世をもたらした偉人ならではの言葉でござるな。

だが敢えて拙者は「重い荷物を背負う必要も、坂道を行く必要もない」と言わせていただくでござる。

大道は甚だ夷らかなるも、而も民は径を好む – 老子 第五十三章

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孔子の論語 子罕第九の十八 吾未だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざるなり

孔子の論語の翻訳226回目、子罕第九の十八でござる。

漢文
子曰、吾未見好徳如好色者也。

書き下し文
子曰わく、吾未だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざるなり。

英訳文
Confucius said, “I have not seen a person who loves virtue as he loves a beauty yet.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「私は美人を愛するように自然と美徳を愛する人物に出会った事がない。」

Translated by へいはちろう

それは美人を愛することは本能からおこる気持ちだが、美徳を愛することは理性からおこる気持ちだからでござるな。

「徳」という言葉に対する孔子の解釈の限界がここに露呈しているでござるな。一方、老子のいう「徳」にはそもそも美醜善悪の区別は無いのでござる。

上徳は徳とせず、ここを以って徳あり。下徳は徳を失わざらんとす、ここを以って徳なし。 – 老子 第三十八章

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