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孔子の論語 八佾第三の二十 關雎楽しみて淫せず、哀しみて傷らず

孔子の論語の翻訳60回目、八佾第三の二十でござる。

漢文
子曰、關雎、樂而不淫、哀而不傷。

書き下し文
子曰わく、關雎(かんしょ)楽しみて淫(いん)せず、哀しみて傷(やぶ)らず。

英訳文
Confucius said, “Guan Ju (the first poem of Shi Jing) expresses delight without licentiousness, and sadness without grief.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「關雎(かんしょ)の詩は(恋愛の)喜びを表しているが淫らと言うほどでも無く、哀しみを表しているが悲嘆と言うほどでも無い。」

Translated by へいはちろう

關雎(かんしょ:詩経の国風の周南の最初の詩、男女の恋を詠った詩。)

關雎の詩は以下のとおりでござる。

關雎(かんしょ)

關關たる雎鳩は 河の洲にあり
窈窕たる淑女は 君子の好き逑なり

參差たる行菜は 左右に之を流む
窈窕たる淑女は 寤めても寐ねても之を求む

之を求むれども得ざれば 寤めても寐めても思服す
悠なる哉 悠なる哉 輾轉反側す

參差たる行菜は 左右に之を采る
窈窕たる淑女は 琴瑟もて之を友とせん

參差たる行菜は 左右に之を撰ぶ
窈窕たる淑女は 鍾鼓もて之を樂しましめん

現代語訳
仲睦まじく鳴きあうミサゴの夫婦が川の中ほどにたわむれている
奥ゆかしく麗しい女性は君子の妻にふさわしい

長いのと短いの、左右二つそろえてアサザを摘むように
奥ゆかしく麗しい女性は寝ても覚めても恋しく思うものなのだ

そんな女性をもし得られなかったらば、寝ても覚めても思い悩んで
届かないこの思い、届かないこの思い、ただただ寝返りを繰り返す

長いのと短いの、左右二つそろえてアサザを摘むように
奥ゆかしく麗しい女性とは琴と大琴の合奏のように二人楽しむものなのだ

長いのと短いの、左右二つそろえてアサザを摘むように
奥ゆかしく麗しい女性とは鉦と鼓の合奏のように二人楽しむものなのだ

Translated by へいはちろう

詩経とは言うまでも無く儒学の五経に数えられる詩篇集でござるが、中でも国風は各地の民謡の詩を集めた物でござる。周南は地域の名前でござるな。儒学といえば堅苦しいイメージが付きまとうものでござるが、決して堅苦しいだけではないと言う一例でござる。

また行き過ぎた感情表現よりも程ほどを愛する(中庸)孔子の好みがよく表れているでござるな。

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孔子の論語 八佾第三の十九 君、臣を使うに礼を以てし、臣、君に事うるに忠を以てす

 孔子の論語の翻訳59回目、八佾第三の十九でござる。

漢文
定公問、君使臣、臣事君、如之何、孔子對曰、君使臣以禮、臣事君以忠。

書き下し文
定公問う、君、臣を使い、臣、君に事(つか)うること、これを如何(いかに)。孔子対(こた)えて曰わく、君、臣を使うに礼を以(もっ)てし、臣、君に事うるに忠を以てす。

英訳文
Marquis Ding asked, “How should the monarch rule his vassals? And how should vassals serve their monarch?” Confucius replied, “The monarch should rule his vassals with courtesy. And vassals should serve their monarch with loyalty.”

現代語訳
魯の定公が孔子に「君主はどの様に家臣を扱い、家臣はどの様に君主に仕えるべきだろうか?」と尋ねられ、孔子はこう答えられました、
「君主は礼儀をもって家臣を扱い、家臣は忠義をもって君主に仕えるべきです。」

Translated by へいはちろう

定公(在位B.C.509~B.C.495。 名前は姫宋、爵位は侯爵。先代の昭公が三桓氏によって追放された後、魯公となった。孔子を重用して司寇(警察・司法責任者)に任じたが、次第に政務への熱意を失っていき礼儀を軽んじるようになる、失望した孔子は魯国を去って行った。)

上記の様に、儒学でいうところの忠義は日本の武士道の忠義とは少し違うところがあるのでござる。儒学において亜聖(孔子に次ぐ聖人)と呼ばれる孟子はこう述べているでござる。

「君主と同族の重臣は君主に重大な過失があり、度々忠言をしても聞き入れられなければ、君主を取り替えるべきである。同族関係でなければ国を去るべきである。」

ついでに言えば日本でも平時の忠義と乱世の忠義もいくらか違うでござるな。

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孔子の論語 八佾第三の十八 君に事うるに礼を尽くせば、人以て諂えりと為す

 孔子の論語の翻訳58回目、八佾第三の十八でござる。

漢文
子曰、事君盡禮、人以爲諂也。

書き下し文
子曰わく、君に事(つか)うるに礼を尽くせば、人以て諂(へつら)えりと為す。

英訳文
Confucius said, “When I serve my lord with the utmost courtesy, people call me ‘a flatterer’.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「私が主君に対して礼を尽くして仕えていると、人々は “媚びへつらっている” という。」

Translated by へいはちろう

「礼」と「媚」は他人から観れば見分けが付きにくいものでござる。これらを明確に分けるとしたらそれは「自分の利益のためにすれば”媚”」、「自他の仁義のためにすれば”礼”」ということでござろうか、常に自らの仁義のために行動していれば他人の批判などは気にならないものでござるが、批判を避けようと思えば大事なのは「日ごろの行い」でござるな。

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孔子の論語 八佾第三の十七 女は其の羊を愛む、我は其の礼を愛む

孔子の論語の翻訳57回目、八佾第三の十七でござる。

漢文
子貢欲去告朔之饋羊、子曰、賜也、女愛其羊、我愛其禮。

書き下し文
子貢(しこう)、告朔(こくさく)の饋羊(きよう)を去らんと欲す。子曰わく、賜(し)や、女(なんじ)は其の羊を愛(おし)む、我は其の礼を愛む。

英訳文
Zi Gong proposed to quit offering sheep as a sacrifice to the ancestors at the ceremony on the first day of every month. Confucius said, “You value sheep. But I value the tradition.”

現代語訳
子貢が毎月1日に行われる告朔(こくさく:毎月1日に祖霊に羊を捧げて、祖廟に保管してあった天子からもらったその月の暦を人民に告げる祭事)に捧げられる羊をやめようと提案して、孔子はこう答えられました、
「子貢よ、お前は羊を惜しむだろうが、私は伝統が失われる事を惜しむ。」

Translated by へいはちろう

古代の政治において暦を支配すると言う事は天子にのみ許された神聖な行為でござった。暦が無ければ農民はいつ種をまいて良いか解らず、いつ雨季が来るかも解らない。政(まつりごと)とは天文を見て、祭祀の日にちを決め、人々の暮らしを支配する事でござる。 日本でも改元などを含め暦を定めるのは朝廷の専有権限であり、その権限は江戸時代前期まで守られたのでござる。

さて今回の文章は合理性を求める子貢と、伝統を重んじる孔子のやりとりでござるな。この時の魯国の告朔の儀式は形骸化しており、それならいっそ羊を無駄にする事もないだろうと子貢は考えたのでござる。しかし孔子は例え形骸化した儀式とは言え、止めてしまう事によりそれまで続いた伝統が絶えてしまう事の方を惜しんだ訳でござる。

「伝統を大事にしよう」と言うのは非常に簡単でござるが、 伝統を受け継ぐ事は非常に難しい。拙者自身は有形であれ、無形であれ時代と共に変化しない物など無いと思っているのでござるが、時代に合わせて何でも変えてしまったりしては全ての物の存在価値が希薄になってしまう。なればこそ人は古きを学んで新しきを知り、変えて良いものと変えてはいけないものを慎重に区別してきたのでござろう。

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孔子の論語 八佾第三の十六 射は皮を主とせず、力の科を同じくせざるが為なり

 孔子の論語の翻訳56回目、八佾第三の十六でござる。

漢文
子曰、射不主皮、爲力不同科、古之道也。

書き下し文
子曰わく、射(しゃ)は皮を主とせず。力の科(か)を同じくせざるが為(ため)なり。古(いにし)えの道なり。

英訳文
Confucius said, “In the competition of archery, the purpose is not to hit a target. Because people’s skill is not equal. This is a method from ancient times.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「弓での競技では的を射抜く事が目的では無い、人々の技術には差があるからである。これは昔から伝わる作法である。」

Translated by へいはちろう

この文は素直に読めばスポーツマンシップとか剣道などに通じるものがあるでござるな。もちろん弓の競技は的を射抜くことを目的としているのでござる、しかしその振る舞いが悪ければ面目が立たなかった、ということでござるな。

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