孔子の論語 陽貨第十七の五 吾は其れ東周を為さんか

孔子の論語の翻訳450回目、陽貨第十七の五でござる。

漢文
公山不擾以費畔、召、子欲往、子路不説曰末之也已、何必公山氏之之也、子曰、夫召我者、而豈徒哉、如有用我者、吾其爲東周乎。

書き下し文
公山不擾(こうざんふじょう)、費(ひ)を以(もっ)て畔(そむ)く。招く。子徃(い)かんと欲す。子路説(よろこ)ばずして曰わく、之(ゆ)くこと末(な)きのみ。何ぞ必ず しも公山氏にこれ之かん。子曰わく、夫(そ)れ我を招く者にして、豈(あ)に徒(ただ)ならんや。如(も)し我を用うる者あらば、吾は其れ東周(とうしゅう)を為(おこ)さんか。

英訳文
Gong Shan Fu Rao rebelled at Fei. He invited Confucius and Confucius wanted to accept it. Zi Lu said unpleasantly, “It is not necessary. Why do you want to serve him?” Confucius replied, “I think he has a reason to invite me. If someone leaves governance to me, I will revive Zhou.”

現代語訳
公山不擾(こうざんふじょう)が費の街で反乱を起こした。彼は孔子を家臣として招いて、孔子はそれに乗り気だった。子路(しろ)がその事を不快そうに、
「行かずとも良いでしょう。どうしてあんな奴に仕えようとなさるのです。」
と言うと、孔子は、
「私を招くのだからそれなりの理由があるのだろう。もし誰かが私の理想に同意し任せてくれるのであれば、私はかつての周を取り戻すつもりだ。」
とおっしゃいました。

Translated by へいはちろう

公山不擾(こうざんふじょう:公山不狃とも書く。魯の季孫氏の家臣で費の街の長官を務めていたが、陽貨と共に三桓氏に対して反乱を起こす。陽貨が敗れて亡命した後も費に立てこもって抵抗を続け、一時は魯の都である曲阜まで攻撃したが三桓氏と孔子によって討たれた。)

子路(しろ:季路とも言う。姓は仲、名は由、字は子路。詳細は公冶長第五の七に。)

孔子50歳の時の出来事でござるな。

「50歳にして天命を知る」と孔子はおっしゃっているのでござるが、孔子の使命感からくる焦りのようなものが感じられる文でござる。

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