孔子の論語 泰伯第八の二 恭にして礼なければ則ち労す

孔子の論語の翻訳189回目、泰伯第八の二でござる。

漢文
子曰、恭而無禮則勞、愼而無禮則子葸、勇而無禮則亂、直而無禮則絞、君子篤於親、則民興於仁、故舊不遺、則民不偸。

書き下し文
子曰わく、恭(きょう)にして礼なければ則(すなわ)ち労(ろう)す。慎(しん)にして礼なければ則ち葸(し)す。勇にして礼なければ則ち乱る。直(ちょく)にして礼なければ則ち絞(こう)す。君子、親(しん)に篤(あつ)ければ、則ち民(たみ)仁(じん)に興こる。故旧遺(こきゅうわす)れざれば、則ち民(たみ)偸(うす)からず。

英訳文
Confucius said, “Without manners: you will be tired even if you want to be reverent, you will be perverse even if you want to be prudent, you will be rough even if you want to be brave, and you will be incisive even if you want to be honest. If a monarch take good care of his relatives, people will be benevolent. If a monarch are kind to his old friends, people will be kind.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「もし恭しく振舞おうという気持ちがあっても礼儀作法を心得なければ骨が折れるだろう。もし慎重に行動しようとしても礼儀作法を心得なければ卑屈だと思われるだろう。もし勇気があっても礼儀作法を心得なければ乱暴者と呼ばれるだろう。もし正直たろうとしても礼儀作法を心得なければ辛辣な物言いになるだろう。もし君主が親戚に対して手厚く対すれば人々の心に仁が芽生えるだろう。もし君主が旧友を大切にすれば人々は親切になるだろう。」

Translated by へいはちろう

前半はなんのために礼儀作法があるのか、という根本的なお話でござるな。現代に生きる我々にしてみれば、「それが当たり前の礼儀だから」という感覚でしかなかったりするのでござるが、その当たり前とされる礼儀が無かったら一体どの様に相手に接して良いのか解らなくなってしまうでござるな。解り易くいえば外国にいったときに、その国の風習をまったく知らなければ思いがけず相手を不快にさせてしまうのと同じでござる。

つまり礼儀作法というのは相手に対する敬意を表すための共通のフォーマットなのでござる。英語学習ブログ的にいえば、言葉に拠らないコミュニケーションの手法でござるな。

しかし本来は自分の真心を誤解されずに伝えるための礼儀作法を、手段と目的を取り違えて用いる方が多いのは悲しいでござるな。英語をコミュニケーション手段としてではなく、進学や就職のために学ばされるのと同じでござる。これらが教養として求められる以上致し方ない事なのでござるが。いや礼儀作法も英語も学ぶきっかけは問わなくてもよいでござるな。しかし学び得たものをどう使うかはまた別の話になると思うのでござる。

老子はこの様に厳しく批判されているでござる。

「礼を重んじる人間は、自分がしている善い事を他人にも無理やりやらせようとする。~略~ とくに礼などというものは、人々から真心や信義が失われた後に作られたものであって、これこそが社会を乱すもとなのだ。 – 老子 第三十八章

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