孔子の論語 八佾第三の十 禘既に灌してより往は、吾これを観ることを欲せず

孔子の論語の翻訳50回目、八佾第三の十でござる。

漢文
子曰、禘自既灌而往者、吾不欲觀之矣。

書き下し文
子曰わく、禘(てい)既(すで)に灌(かん)してより往(のち)は、吾これを観ることを欲せず。

英訳文
Confucius said, “At the Ti rite, I don’t want to see any further after the libation sprinkled.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「禘(てい)の祭事において灌(かん:神酒を地面に撒く儀式)が終わったあとは、もう私は観る気がしない。」

Translated by へいはちろう

禘(てい)とは5年に一度、正月に諸侯が天子(周王)の先祖を祭る非常に大切な祭祀でござる。灌(かん)とはその時に捧げられる欝鬯(うつちょう:キビを発酵させて作った酒にウコンの搾り汁を混ぜた御神酒)を地面に撒いて、祖霊を降霊する儀式でござる。

要するにそんな非常に大切な儀式を伝統的な礼式にのっとった作法で行われない魯国の現状を嘆いて言った言葉でござる。

論語にはこの様に理想を唱える孔子が現状を嘆く(愚痴る)言葉が多く収録されているのでござるが、論語の編者はどの様に思っていたのでござろうか。

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孔子の論語 八佾第三の九 文献足らざるが故なり、足らば則ち吾能くこれを徴とせん

孔子の論語の翻訳49回目、八佾第三の九でござる。

漢文
子曰、夏禮吾能言之、杞不足徴也、殷禮吾能言之、宋不足徴也、文献不足故也、足則吾能徴之矣。

書き下し文
子曰わく、夏(か)の礼は吾(われ)能(よ)くこれを言えども、杞(き)は徴(しるし)とするに足らざるなり。殷(いん)の礼は吾能くこれを言えども、宋(そう)は徴とするに足らざるなり。文献(ぶんけん)足らざるが故(ゆえ)なり。足らば則ち吾能くこれを徴とせん。

英訳文
Confucius said, “I can explain rites of Xia dynasty, but there are not enough evidences in Qi (which is descendant of Xia). I can explain rites of Yin dynasty, but there are not enough evidences in Song (which is descendant of Yin). It is because of lack of data. If there were enough data, I could study from those.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「私は夏王朝の礼について話をする事が出来るが、(夏の子孫である)杞の国には裏づけとなる資料が伝わっていない。また殷王朝の礼についても話をする事が出来るが、(殷の子孫である)宋の国には裏づけとなる資料が伝わっていない。もし十分な資料(史料)が残っていれば、私はもっとそれらから学べるのだが(残念だ)。」

Translated by へいはちろう

孔子のお気持ちを痛い程わかる、何故ならば論語も同じく十分な資料が足りないからでござる。何度か言及したのでござるが現在に伝わる論語は魏の時代の何晏による「論語集解(古注)」が最も古くそれ以前の論語は伝わっていないのでござる。(日本で主に知られる論語は南宋の朱子による「論語集注(新注)」)

中国の言語史をご存知の方ならば解ると思われるでござるが、孔子の周の時代から戦国、秦、漢を経て三国時代と言えば約800年程の時間が経過しており、特に使用されている文字が篆書体(てんしょたい)から隷書体(れいしょたい)に変わって、その変遷は非常に大きいものでござった。さらに秦の始皇帝による焚書坑儒(始皇帝は儒学の本を焼き儒学者を生き埋めにした)でどれだけの資料が失われた事でござろうか・・・

時代と共に変わらぬ物は無いのでござる、それがたとえ過去の聖人の言葉であろうとも資料が失われたり解釈が変わったりしていくらかの変遷をせざるを得ないものでござる。拙者はただの歴史オタクなので知的好奇心から残念に思うだけでござるけど。

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孔子の論語 八佾第三の八 絵の事は素を後にす。曰わく、礼は後か。

 孔子の論語の翻訳48回目、八佾第三の八でござる。

漢文
子夏問曰、巧笑倩兮、美目盼兮、素以爲絢兮、何謂也、子曰、繪事後乎、子曰、起予者商也、始可與言詩已矣。

書き下し文
子夏問うて曰わく、巧笑倩(こうしょうせん)たり、美目盼(はん)たり、素以て絢(あや)を為すとは、何の謂いぞや。子曰わく、絵の事は素を後(のち)にす。曰わく、礼は後か。子曰わく、予(わ)れを起こす者は商なり。始めて与(とも)に詩を言うべきのみ。

英訳文
Zi Xia asked, “Shi Jing says – ‘Face dimples when she smiles. Eyes are bright and beautiful. Her made up face is very attractive.’ What does it mean?” Confucius replied, “It is like to give the finishing touches to a picture.” Zi Xia asked, “Is the courtesy a finishing touch of human?” Confucius replied, “You have enlightened me. We can talk about Shi Jing from now on.”

現代語訳
子夏(しか)が孔子に、
「詩経に “微笑めばえくぼができ、目はぱっちりと美しい、白粉(おしろい)をつけたその顔はあでやかだ” とありますが、これはどういう意味でしょうか?」と問い、
孔子はこう答えられました、
「絵を描くとき最後に胡粉(こふん)で仕上げをする様なものだ。」
子夏がさらに、
「礼とは人間の仕上げの様なものですか?」と問うと、孔子は、
「これは私でも気づかなかった。これからはお前と詩経について語り合う事が出来そうだ。」
と答えられました。

Translated by へいはちろう

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孔子の論語 八佾第三の七 君子は争う所なし

 孔子の論語の翻訳47回目、八佾第三の七でござる。

漢文
子曰、君子無所爭、必也射乎、揖譲而升下、而飮、其爭也君子。

書き下し文
子曰わく、君子は争う所なし。必ずや射(しゃ)か。揖譲(ゆうじょう)して升(のぼ)り下(くだ)り、而(しこう)して飲ましむ。其の争いは君子なり。

英訳文
Confucius said, “Gentlemen don’t like conflicts. At most they have a competition of archery. At the competition, they behave politely to their competitors. And a winner treat a loser to a cup of sake. This is a manner of gentlemen’s competition.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「君子(すぐれた人格者)は争いを好まぬものだ、せいぜいが弓の腕前を競うくらいだろう。その場合でも対戦相手に対しお互いが礼儀正しく譲り合い、勝者は敗者に酒を振る舞って遺恨を後に残さない。これこそ君子の争いの作法であろう。」

Translated by へいはちろう

簡潔に言ってしまえば、スポーツマンシップというやつでござるな。人より抜きん出たいという競争心理は人間の本能の様なものでござる。それは人を成長させるのには欠かせないものなのでござるが、自らを誇るより他者を貶める方向で作用してしまうと自分も相手も結局損をするものでござる。常に相手に対して敬意を払い、事が終わってノーサイド、洋の東西に関わらず、かくありたいものでござる。

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孔子の論語 八佾第三の六 曾ち泰山を林放にも如かずと謂えるか

 孔子の論語の翻訳46回目、八佾第三の六でござる。

漢文
季氏旅於泰山、子謂冉有曰、女不能救與、對曰、不能、子曰、嗚呼、曾謂泰山不如林放乎。

書き下し文
季氏、泰山に旅す。子、冉有(ぜんゆう)に謂いて曰わく、女(なんじ)救うこと能(あた)わざるか。対(こた)えて曰わく、能わず。子曰わく、嗚呼(ああ)、曾(すなわ)ち泰山を林放(りんぽう)にも如(し)かずと謂(おも)えるか。

英訳文
Ji Sun was going to make a pilgrimage to Mt. Tai. Confucius asked Ran You, “Can you stop him?” Ran You replied, “I cannot, master.” Confucius said, “Alas! So you think that the sacred Tai mountain is inferior to Lin Fang, don’t you?”

現代語訳
魯の大臣の季孫氏(きそんし)が泰山で祭祀をしようとしていた。孔子はそれを知って冉有(ぜんゆう)に尋ねられました、
「お前は季孫氏の不遜な行い(泰山での祭祀が許されるのは主君である魯公だけ)を止めさせる事が出来るか?」
冉有は、
「出来ません。」
と答え、孔子は嘆いておっしゃいました、
「あぁ!それではお前は神聖な泰山が(礼を弁えていると言う点で)林放(りんぽう)にも劣ると思っているのか?(きっと泰山の神様はお怒りになるだろう)」

Translated by へいはちろう

季孫氏とは孔子の居た魯の国を実質的に支配していた三桓氏(孟孫・叔孫・李孫の御三家)の一つ(一人)でござる。孔子門下の高弟であった冉有は当時李孫氏に仕えていたため、冉有に主人の不遜な行いを止めさせるように頼んだのでござる。

泰山というのは当時の斉国と魯国の境にあった道教における五岳(五つの神聖な山)の中でも最も尊いとされる(五岳独尊)山で、始皇帝や他の帝王たちが封禅(新たに天子となった者が、天地を祀る天子のみが行える儀式)を行った山としても有名でござる。当然天子かその土地の諸侯でなければ通常の祭祀でさえ行うのは不遜とされるので孔子は何としても止めさせたかったのでござる。

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