学問のすすめの翻訳、三編 段落五でござる。
現代語訳
かつて戦国の時代に、駿河の今川義元が数万の兵を率いて織田信長を攻めようとした時、信長は策を講じて桶狭間に兵を伏せ、今川の本陣に突撃して義元を討ち取った。すると残った駿河の軍勢はまるで蜘蛛の子を散らす様に、戦いもせずに逃走し、当時その勢力を誇った今川家も瞬く間に跡形もなく滅亡してしまった。
つい二、三年ほど前のフランスとプロイセンの戦争の時は、緒戦において両国は激しく戦い、フランス皇帝ナポレオン三世がプロイセンの捕虜となった。しかしフランス人はこれで希望を失わなかっただけでなく、ますます奮起して防戦し、戦場に骨をさらして血を流し、数か月の籠城戦の後にようやく和睦に応じたけれども、フランスは以前と変わらぬまま国家を存続させる事ができた。
今川とフランスはまったく違う結末を迎えたけれども、その理由はなんであろうか。駿河の人民はただ君主である義元一人に依存し、自分は客人のつもりで、駿河を自分の大切な国だと思う者がいなかった。それに比べてフランスには報国の心を持った人民が多く、国難を自分の問題として受け止め、誰に強制される訳でもなく、自分から国のために戦う者が多かったから、これほどの違いが生じたのだ。
こうして見ると、外国に対して自国を守ろうとする際には、独立の気力のある国民は国家の事を真剣に考え、独立の気力の無い国民は真剣には考えないという事が解る。
英訳文
In the Sengoku period, when Imagawa Yoshimoto of Suruga invaded Owari with tens of thousands of troops, Oda Nobunaga of Owari ambushed them at Okehazama, assaulted the Imagawa headquarters and killed Yoshimoto. Then Imagawa troops routed without a fight and the prosperous Imagawa government fell without a trace in a short time.
Just a few years ago, in the beginning of the Franco-Prussian War, French Emperor Napoleon III was captured by Prussian troops. But French people didn’t give up, on the contrary, they roused themselves and fought at the risk of their lives. After some months siege, they concluded a peace with Prussia, but France survived as before.
Why did Imagawa and France reach different conclusions? All the people of Suruga depended on Yoshimoto, considered themselves as guests and nobody consider Suruga as their own country. On the other hand, France had a lot of patriotic people. They considered its problems as their own problems and fought for their country voluntarily. This is why they reached such different conclusions.
Therefore, when you defend your country from foreign threats, you can easily imagine that the people with the spirit of independence take their country to heart and the people without the spirit of independence don’t.
Translated by へいはちろう
フランスとプロイセンの戦争(普仏戦争)が行われたのは1870年7月19日から1871年5月10日にかけての事でござる。学問のすすめの第三編が書かれたのが1873年12月の事でござるから、ちょうど2~3年前という事になるでござるな。
日本人にも馴染みの深い日本史の出来事と比較して、封建国家と国民国家の人民の国家に対する忠誠心の違いを説明しようとしたと思うのでござるが、ここで勝者であるプロイセンに注目しないところが福沢諭吉の知識人としてのある種の限界を露呈している様にも思えるでござるな。あるいは解っていて故意に触れていないのか。
フランス革命により封建国家から国民国家へと生まれ変わったフランスは、ナポレオン戦争によって民族主義をヨーロッパ全土へと広める結果を生んだ。ナポレオン戦争以前にはおよそ300の君主国に分裂していたドイツでも、これにより統一の機運が高まり、その中でも大国であったプロセンセン王国の首相、オットー・フォン・ビスマルクの主導で始められたのがこの普仏戦争でござる。
そして普仏戦争の大勢が完全に決した中、1871年1月18日にドイツ帝国が成立する訳でござるが、鉄血宰相の異名を持つビスマルクは後に、「統一ドイツが出来上がるためには、その前に普仏戦争が起こらねばならない事は分かっていた」と述べており、簡単に言うとドイツ人民のナショナリズムを煽動するために共通の敵としてフランスを利用した訳でござるな。
ヨーロッパにおける国民国家としては後発だったドイツの勝利は、当時の日本政府首脳の興味を大いにそそったのか、その後ドイツ軍を参考にした徴兵による国民皆兵制度・参謀幕僚制・鉄道網を利用した動員制度などが日本にも漸次導入されているでござる。その他、プロイセン憲法を参考にした大日本帝国憲法の制定も含めて、福沢が理想としたであろう日本とは若干違う方向へと実際の日本が進んでいった事は皆さんご存知の通りでござる。
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