孔子の論語の翻訳180回目、述而第七の三十でござる。
漢文
陳司敗問、昭公知禮乎、孔子對曰、知禮、孔子退、揖巫馬期而進之曰、吾聞、君子不黨、君子亦黨乎、君取於呉、爲同姓謂之呉孟子、君而知禮、孰不知禮、巫馬期以告、子曰、丘也幸、苟有過、人必知之。
書き下し文
陳の司敗(しはい)問う、昭公は礼を知れるか。孔子対(こたえ)て曰わく、礼を知れり。孔子退く。巫馬期(ふばき)を揖(ゆう)してこれを進めて曰わく、吾聞く、君子は党せずと。君子も亦(また)党するか。君、呉に取(めと)れり。同性なるが為めにこれを呉孟子(ごもうし)と謂う。君にして礼を知らば、孰(たれ)か礼を知らざらん。巫馬期、以て告(もう)す。子曰わく、丘(きゅう)や幸いなり、苟(いやしく)も過ちあれば、人必ずこれを知る。
英訳文
The chief judicial officer of Chen asked, “Did marquis Zhao have a sense of courtesy?” Confucius replied, “Yes, he did.” Confucius left the room. Then chief judicial officer said to a pupil of Confucius whose name was Wu Ma Qi, “I think gentlemen must not be unfair. But I’m afraid gentlemen sometimes can be unfair. Marquis Zhao married a woman from Wu. Her family name was the same as marquis’s. So marquis called her Wu Meng Zi. If marquis had a sense of courtesy, everyone would have a sense of courtesy.” Wu Ma Qi said this to Confucius. Confucius said, “I feel happiness so much. If I make a mistake, someone correct my mistake.
現代語訳
陳の国の司法長官が孔子に、
「貴国の先代である昭公は礼節をわきまえたお方でしたか?」
と尋ね、孔子は、
「はい昭公は礼節をわきまえておいででした。」
と答えられました。
孔子が部屋を退出された後、長官は側にいた巫馬期(ふばき)を呼び寄せて言いました、
「人格者というものは身びいきをしてはならないはずだが、時には人格者といえども身びいきをするようだ。昭公は呉国より妻をめとられたが、彼女が同姓であったため、呉孟子(ごもうし)と呼んでごまかしていた。(同姓との結婚は許されないのに)この様な人物が礼節をわきまえるとしたら、誰でも礼節をわきまえていることになるだろう。」
その後で巫馬期が孔子にこのことを話すと、
「私はなんと幸せ者なのだろう。もし私が間違いを犯しても、誰かがそれを正してくれる。」
とおっしゃいました。
Translated by へいはちろう
巫馬期(ふばき:姓は巫馬、名は施、字は子旗。孔子の弟子の一人。)
昭公(しょうこう:魯の23代目、当時の魯の実質的支配者だった三桓氏の討伐を試みるが失敗して斉に亡命した。)
今でも中国や朝鮮半島では同姓同士の結婚を避ける傾向がある様でござるが、何故かを解説するのは非常に長くなるので省略するでござる。ちなみに魯も呉も周王室に連なる姫(き)姓でござるな、当時の諸侯のほとんどが周王室の子孫で姫姓だったので、諸侯の公子たちの結婚はさぞかし大変だったでござろう。
昭公はこの事以外にも先代の襄公の喪中にも喪服を着ながら遊び回ったりするなど、礼節をわきまえているとは言いがたい話が残っており、孔子が昭公を「礼節をわきまえている」と言ったのはあくまでも臣下として主君の悪口を言うべきでないと思ったからでござろう。
しかし陳の司法長官は(孔子も魯の司法長官だったことがある)、それを不公正であると非難した訳でござるが、孔子もこのような場合には忠よりも公正さが大事だと思いなおされて、すぐに間違いを認めるあたりは流石でござるな。
述而第七の英訳をまとめて読みたい御仁は本サイトの論語 述而第七を英訳を見て下され。