聖徳太子による十七条憲法の翻訳、第一条でござる。
原文
一曰、以和爲貴、無忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。是以、或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成。
書き下し文
一に曰く、和を以(も)って貴(たっと)しと為し、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者少なし。ここを以って、或(ある)いは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里に違(たが)う。然(しか)れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。
英訳文
Harmony should be valued and quarrels should be avoided. Everyone is apt to form a clique, and there are few people who are reasonable. Therefore some disobey their lords and fathers, and feud with their neighbors. But when superiors are in harmony and inferiors are friendly, then they discuss affairs in cooperation, everything will be reasonable spontaneously. Then there is nothing which cannot be accomplished.
現代語訳
和というものを何よりも大切にし、いさかいを起こさぬように心がけなさい。人は誰しもいずれかの共同体に所属しているが、そんな中にも道理が解った人は少ないものだ。そんな事だから君主や父親に逆らったり、近所で揉め事が起きたりする。しかし人の上に立つ者たちが和を尊重し、下の者たちが仲良くし、お互いに意見を出し合って議論をすれば、物事の道理は自然と通じるようになる。そうなればどんな事でも成し遂げられるだろう。
Translated by へいはちろう
※2007年4月18日から5月5日にかけて英語訳をしたこの十七条憲法、この時はまだ原文・書き下し文・英訳文のみで現代語訳をつけておらず、解説もほとんどしてなかったのでござる。もともと拙者の英語学習のために始めたことなのでこの時はそれでよかったのでござるが、その後論語や老子の英語訳のついでに現代語訳と解説も掲載するようになると、英語とは関係なしにこのブログを訪れる方も増えてきたみたいなので、今回(2011年7月)、あらためて現代語訳と簡単な解説を掲載することにしたでござる。なお現代語訳にあたっては、老子の時と同じく “共感” を一つのキーワードとしてできるだけ解りやすく訳すつもりでござるよ。
さて十七条憲法でも最も有名な第一条、特に「和を以って貴しと為す」の部分は日本人の協調性を重んじる精神を象徴する言葉として引用される事の多い言葉でござるな。この言葉は論語 学而第一の十二にある、「礼の用は和を貴しと為す」を原典としていると言われているのでござるが、儒学ではあまり重んじられていない和という徳を、第一条の根幹に据えた所に聖徳太子の独創性があるのでござるな。
原文を見れば解るとおり、十七条憲法は日本語ではなく当時の中国語で書かれているのでござる。文体もやはり当時の中国の主流であった四六駢儷体(しろくべんれいたい)というもので書かれており、この文体は4字あるいは6字の句を基調として、内容的には古典の引用を多く用いて装飾的な修辞をするのが特徴でござる。なので十七条憲法には儒学・法家・老荘・仏教などの書物から多くの表現が引用されていると言われているでござる。上に挙げた例はその最も有名なものでござるが、古典の引用が多いからといって独創性が無いという事にはならないという事が解ってもらえるでござろうか。
さて当時は日本史の時代区分でいうと古墳時代後期から飛鳥時代への過渡期で、まだ氏族を中心とした豪族政治が行われており天皇(大王)の権威もそれほど強くなく、蘇我氏と物部氏の争いなど豪族間の紛争が絶えず、統一国家として十分な体裁をもっていたとは言いがたい状況でござった。そんなおり中国大陸では長い戦乱の時代を経て隋という国が中国を統一し、強力な中央集権国家をうちたてたのでござる。隋は太子が遣隋使を送ったことでも有名でござるな。もとより中国の古典や歴史に通暁していた太子は、争いを治めるには日本にも天皇を中心とした中央集権国家をつくるしかないと思い至ったのでござろう。603年には中国の官僚制を参考にして冠位十二階を制定し、604年に官僚たちの心構えを説いた十七条憲法を制定するのでござる。
そんな十七条憲法の第一条の内容が天皇の権威を説いたり、太子の信奉する仏教について説いたものではないのは、太子が理想とする国家像がそこにあるからでござろう。もとよりこの両者は十七条憲法の重要な要素ではあるが、目的と手段のどちらであるかといえば太子の目的は争いの起こらぬ調和した国家をつくることの方にこそあったのだと思う次第でござる。この第一条の内容が時代を超えて多くの日本人の心に響くのは、そういう太子の願いに共感を覚える人が多いからではないでござろうか。
※全条文の英訳を読みたい方は聖徳太子の十七条憲法を英訳をご覧くだされ。