聖徳太子による十七条憲法の翻訳、第十二条でござる。
原文
十二曰、國司國造、勿斂百姓。國非二君、民無兩主。率土兆民、以王爲主。所任官司、皆是王臣。何敢與公、賦斂百姓。
書き下し文
十二に曰く、国司(くにのみこともち)、国造(くにのみやつこ)、百姓(ひゃくせい)に斂(おさ)めとることなかれ。国に二君(にくん)なく、民に両主(りょうしゅ)無し。率徒(そつど)の兆民(ちょうみん)は王を以(も)って主(あるじ)となす。任ずる所の官司(かんじ)はみなこれ王の臣なり。何ぞ敢(あ)えて公と与(とも)に、百姓に賦斂(おさめと)らん。
英訳文
The prefects and governors must not impose taxes on people without leave. In this country, there are not two monarchs. The people cannot have two lords. The emperor is the unique sovereign of the people of the whole country. The public officers whom he appointed are all his vassals. How can they impose a tax except official taxes by the emperor?
現代語訳
地方を治める長官たちは、民衆に対して勝手に課税してはならない。国に二人の君主はおらず、民衆にも二人の主はいない。この国に暮らす全ての民衆にとって主は天皇ただ一人である。天皇が任命する地方官はみなその臣下である。どうして天皇が定める税と一緒に、勝手な税を取り立てる事ができようか。
Translated by へいはちろう
徴税権に関する規定でござるな。天皇を中心とした中央集権的な国家をつくろうとした聖徳太子ならではと言ったところでござるが、日本史に詳しい方は少なくとも徴税権に関しては太子の意志に反して中央集権的であった時代の方が地方分権的であった時代よりはるかに短いという事をご存知でござろう。太子の改革にはじまる律令制の導入によって一時的に中央集権制はすすんだものの、743年の墾田永年私財法によって中央政府の権限の及ばぬ荘園が成立し、その後の武家の台頭と幕府の成立を経て、明治維新によって1872年に廃藩置県が行われるまで中央政府は徴税権を掌握していないでござるな。
当時の人々にとってみれば、誰が徴税者であろうとより少ない税でより良いサービスを提供してくれる方がありがたいわけでござるから、今回の条文を読んだだけで内容の是非は判断できないでござろう。当時の地方政治の実態の研究が進むのを待って判断したいでござる。
なお余談でござるが、今回の原文には “王” という呼称が使われているのでござるが、英訳では “emperor”、現代語訳では “天皇” の訳語をあてているでござる。天皇という呼称がいつの時代から公式に使われるようになったのかについては議論があるところでござろうが、理解を易しくするために上記のように統一する事にした次第でござる。また十七条憲法が法文の一種であることを考慮し、英訳で “His Majesty” などの敬語表現を用いたり、現代語訳でも特別な敬語を使っていないのであしからずご了承くだされ。
※全条文の英訳を読みたい方は聖徳太子の十七条憲法を英訳をご覧くだされ。