聖徳太子による十七条憲法の翻訳、第十五条でござる。
第十五条
原文
十五曰、背私向公、是臣之道矣。凡人有私必有恨。有憾必非同、非同則以私妨公。憾起則違制害法。故初章云、上下和諧、其亦是情歟。
書き下し文
十五に曰く、私(わたくし)に背(そむ)きて公(おおやけ)に向うは、これ臣の道なり。およそ人、私あれば必ず恨(うらみ)あり、憾(うらみ)あれば必ず同(ととのお)らず。同らざれば則(すなわ)ち私をもって公を妨(さまた)ぐ。憾起こるときは則ち制に違(たが)い法を害(やぶ)る。故に、初めの章に云(い)わく、上下和諧(わかい)せよ。それまたこの情(こころ)なるか。
英訳文
The way of vassals is to concentrate on official duties without one’s own desire. If you do your duties with your desire, there will be a grudge. If there is a grudge, there will be discord. If there is discord, it will obstruct official duties. Then if there is a grudge, it will ruin the official system and laws. Therefore as I said in article 1, “Superiors and inferiors must cooperate together.”
現代語訳
私情を捨てて公務に向かうのは、臣下たる者の道である。どんな人間でも私情から他人を恨むようになり、恨みの気持ちがあれば人の和を乱すことになる。人の和が乱れていれば私情によって公務に弊害を及ぼす。また恨みの気持ちから規則や法を破る者もでてくる。私が第一条で上の者も下の者も互いに仲良くせよと言っているのは、こう言った事なのである。
Translated by へいはちろう
韓非子の五蠹篇では「”私” という字は古くは “ム(私的に囲む)” という形であり、それに背くという意味の “八” を足すと “公” になる、つまり公私は相反する概念であり両立しない。」と説かれているでござる。その事から今回の条文は韓非子の影響を受けていると言われるのでござるが、第十一条の時と同じく問題の解決を臣下のモラルに求めるところに理想家としての太子と現実主義者の韓非子の違いが見えるようでござるな。
もちろん太子のおっしゃる事は至極まともな事だと思うのでござるが、同時に官吏たちが互いに恨みの感情を持たないように、あるいは恨みの感情を持っても公務に影響を及ぼさないように対策を講じるのも為政者としては重要な事でござろう。仲良くしなさいの一言で兄弟喧嘩がなくなるのなら、世の親はどれだけ楽になることでござろうか。ゆえに重要なのは第十一条でも語られた信賞必罰という事になると思うのでござるが、そちらでも述べたとおり太子がその事についてどれほどの考えをもっていたのかは拙者には疑問の余地が残る次第でござる。
※全条文の英訳を読みたい方は聖徳太子の十七条憲法を英訳をご覧くだされ。