孔子の論語 陽貨第十七の二十五 唯女子と小人とは養い難しと為す

孔子の論語の翻訳470回目、陽貨第十七の二十五でござる。

漢文
子曰、唯女子與小人、爲難養也、近之則不孫、遠之則怨。

書き下し文
子曰わく、唯(ただ)女子と小人とは養い難しと為す。これを近づくれば則(すなわ)ち不孫(ふそん)なり。これを遠ざくれば則ち怨む。

英訳文
Confucius said, “Women and worthless men are hard to deal. If you are kind to them, they will be too frank. If you are not kind to them, they will have a grudge against you.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「女と取るに足らぬ男は扱いにくい。親切にすれば調子に乗るし、親切にしなければ恨まれる。」

Translated by へいはちろう

孔子は奥さんに逃げられているでござるからな。色々あっておっしゃったのかも知れないし、違うのかも知れないでござる。

家族愛としての孝を説いて、「国を治める根本は家庭を斉(ととの)える事である。家庭を斉える根本は自分を修める事である。」というのが儒学の基本理念なのでござるが (修身、斉家、治国、平天下 ※大学)、孔子・息子の伯魚・孫の子思と三世代に渡って奥さんに逃げられているのは皮肉といえば皮肉でござるな。

※補足
「ここでの “女子” は女性一般を指す語ではなく、小人と対応して “くだらぬ女” という限定的な意味ではないか」というご指摘をいただいたので、浅学非才の身ながら拙者なりの解釈を補足説明させていただくでござる。なお今回の文に限らず、ここに掲載されているのはあくまで拙者の論語の解釈であって、拙者自身の思想信条とは別だという点を強調させていただくでござるよ。

まず単純に「女子」という言葉の字義には、「小人」の「小」のように、「ささいな」とか「取るに足らぬ」とか、転じて「くだらぬ」といった意味が無いことが一点でござる。

次に「小人」という言葉には、人格や教養の面で優れた「君子」に対して、それらの面で劣った「くだらぬ人間」という解釈があるのと同時に、古来より貴族や官僚などの支配者層に対する「平民」というような身分の低い被支配者層の人間を指す言葉としても解釈されているのでござるが、それを受けてここでの「女子」にも世の女性全般ではなく、「妾」や「下女」といった身分の低い女性を指す言葉であるという解釈もある事は事実でござる。しかし論語を普通に読むと孔子が「小人」という言葉を身分の違いを表す言葉として使用しているとは少なくとも拙者には解釈しがたく、「君子」や「小人」が身分の違いを表す言葉として使用されるのは、漢代に入って儒学が支配者層の必須科目となって以降の事だと拙者には思われるでござる。

また「女子」を身分の低い女性を指す言葉だという解釈をするのは近現代の日本の学者に多いのでござるが、これは日本の女性の場合は古来より、政治の世界では女性天皇を何人も輩出したり北条政子という女傑がいたり、文学の世界では女性が詠んだ数多くの和歌が残されていたり清少納言や紫式部などの著名な文人がいたりと、孔子当時の中国とは違って単純に女性全般を人格や教養の面で「小人」と同じ扱いにすると違和感を生じるからでござろう。当時の中国では歴史に名を残すような女性は美女であるか、悪女であるという扱いがほとんどで、特に教養の面で優れていたという人物の話は皆無ではないにしろあまり聞かないでござるな。これも当時の中国人女性が潜在能力的に劣っていたというよりは、社会制度の違いが生んだ結果でござろうが、いずれにしろ孔子にとっては自分が認められるような、(儒学的な意味で)人格的に優れた・教養のある女性に出会う事は稀有であったでござろうから、「女子と小人」とひとくくりの扱いになったのだと思われる次第でござる。

以上の理由から拙者は、孔子は「女子」という言葉を女性全般を指す言葉として使用されているのだと解釈する次第でござる。しかしあくまで孔子の知る当時の中国の女性全般の話であって、現代女性や他の地域の女性まで指している言葉ではないでござるな。また孔子が偉大であるからと言ってその言葉が全て正しいというわけでもないでござろうし、論語の中に賛同できない言葉があるからといって解釈を無理に変えたり、孔子の他の言葉を全て否定する理由とはならないでござろう。用いるべきは用い、用いざるべきは用いなければ良いだけだと、このように拙者は考える次第でござる。

陽貨第十七の英訳をまとめて読みたい御仁は本サイトの論語 陽貨第十七を英訳を見て下され。