孔子の論語 述而第七の二十五 恒ある者を見るを得ば、斯れ可なり

孔子の論語の翻訳175回目、述而第七の二十五でござる。

漢文
子曰、聖人吾不得而見之矣、得見君子者、斯可矣、子曰、善人不得而見之矣、得見有恆者、斯可矣、亡而爲有、虚而爲盈、約而爲泰、難乎有恆矣。

書き下し文
子曰わく、聖人は吾得てこれを見ず。君子者(くんししゃ)を見るを得ば、斯れ可(か)なり。子曰わく、善人は吾得てこれを見ず。恒(つね)ある者を見るを 得ば、斯れ可なり。亡(な)くして有りと為し、虚(むなし)くして盈(み)てりと為し、約にして泰(ゆたか)なりと為す。難(かた)いかな、恒あること。

英訳文
Confucius said, “I’ve never seen a sage. But I will be content if I can see a gentleman.” Confucius said, “I’ve never seen a born good person. But I will be content if I can see a person who knows contentment. He can be rich without money, fulfilled without substances and calm if he is poor. There are few people like that.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「私は聖人に会ったことはないが、人格者に会うことが出来ればそれで十分だ。」
孔子はまたおっしゃいました、
「私は生まれつきの善人に会ったことはないが、満足する事を知っている人物に会うことが出来ればそれで十分だ。その人物は物が無くても有る様に豊かで、財産が空っぽでも心が満たされていて、貧しくてものびやかに暮らす。しかしその様な人物に会うのは難しい。」

Translated by へいはちろう

「武士は食わねど高楊枝」という言葉が一瞬頭に浮かんだのでござるが、これは違うでござるな。

武士は~の言葉は忍耐や自制を表しているのでござるが、今回の文章は「足るを知る」を表しているのでござる。忍耐と満足では大分違う解釈でござる。忍耐することによって得られる満足、という解釈も出来るでござるが、やはり満足の方に重きを置きたいところでござるな。

しかし孔子のお言葉の大半は良しとして、最後のこの様な人物が少ない。という言葉には皮肉を感じざるを得ないでござる。何故なら足るを知る事や素朴な暮らしを重んじて孔子の儒学と対立していた老荘思想家、特に荘子の中の寓話ではまさにこの様な暮らしを守る人々によって孔子が批判されているからでござる。(但し、荘子は孔子を批判しつつも一定の評価もしている)

孔子の周りには立身出世や向学の志高い若者が集まり、名誉欲の強い王侯貴族と交わっていたのでござるから、その様な人物が少ないのは当然の事でござる。

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