孔子の論語 述而第七の九 是の日に於て哭すれば、則ち歌わず

孔子の論語の翻訳159回目、述而第七の九でござる。

漢文
子食於有喪者之側、未嘗飽也、子於是日也哭、則不歌。

書き下し文
子、喪(も)ある者の側(かたわら)に食すれば、未だ嘗(かつ)て飽(あ)かざるなり。子、是(こ)の日に於(おい)て哭(こく)すれば、則(すなわ)ち歌わず。

英訳文
Confucius never ate his fill beside people in mourning. Confucius never sang all day long when he attended a funeral.

現代語訳
孔子は喪中の人の側で腹いっぱい食べることなく、葬儀に出て哭礼(死者を悼んで泣く儀式)をした日には歌を歌われませんでした。

Translated by へいはちろう

八佾第三の四で孔子は「喪は其の易(そなわ)らんよりは寧ろ戚(いた)めよ。(葬礼は体裁よりも死者を悼む気持ちが大切だ)」とおっしゃっているでござるな。その気持ちの現れとして自らの欲を抑えて死者を悼まれたということでござる。

がしかし、孔子のお気持ちはともかく論語の中にこの様な形で文章に残ったからには「その様にするのが形式」となるのが儒学に限らず人の世の常でござるな。哭礼というのは死者を悼む気持ちを表す重要な礼儀とされ、たとえ涙が出なくても声をあげて泣きまねをするのが君子であるとされていたのでござる。家族が死んだら悲しいはずだ→悲しいなら涙がでるはずだ→涙がでないやつは人間じゃない、ともはや誰のために悲しむのか解らない程でござる。

ちなみに孔子以降の儒学者たちの実態を批判したものとして、戦国時代に儒学よりも広く浸透していた墨子にこう書かれているでござる、

「儒者どもは、夏には穀物を乞い歩き、収穫が終わってそれができなくなると、葬礼に出かける、自分だけでなく、息子や孫までひきつれてゆき、腹一杯飲み食いする。葬礼をいくつか請け負えば、なりわいが立つ。」

まあ他国の文化をあれこれというのはどうかと思うので、日本のことに思いをいたせば現在行われている葬礼や喪に関する風習のほとんどが仏教本来のものではなく儒教の影響を受けたものでござる。江戸期に檀家制度がしかれて民衆の心が仏教から離れ、朱子学の奨励によって儒教的精神が一般化した結果、形式的葬式仏教という特殊な文化が日本に根付くことになったのでござる。

日本人のほとんどが貧しかった時代に「立派な葬式を出してやりたい」というのは人情の表れであって理解できることなのでござるが、豊かになった現代において簡素で静かな葬礼を望まれる人が増えてきたというのは考え深いものがあるのでござるな。

何にせよ家族であるならば「生きている間に仲良くする」ことが大事なことだと思う次第でござる。

述而第七の英訳をまとめて読みたい御仁は本サイトの論語 述而第七を英訳を見て下され。