孔子の論語 八佾第三の十一 其の説を知る者の天下に於けるや、其れ諸れを斯に示るが如きかと

 孔子の論語の翻訳51回目、八佾第三の十一でござる。

漢文
或問禘之説、子曰、不知也、知其説者之於天下也、其如示諸斯乎、指其掌。

書き下し文
或るひと禘(てい)の説を問う。子曰わく、知らざるなり。其の説を知る者の天下に於(お)けるや、其れ諸(こ)れを斯(ここ)に示(み)るが如きかと。其の掌を指す。

英訳文
Someone asked a meaning of the Ti rite. Confucius replied, “I don’t know. He who knows that, could govern the country easily as to put the country on his palm.”

現代語訳
ある人が禘(てい)の祭礼の意義について尋ね、孔子は、
「私は知らないよ、もしそれを知っている人がいるなら、天下をここに置いて観るようなものだろうね。」と自分の手のひらを指さしながらおっしゃいました。

Translated by へいはちろう

禘(てい)の祭礼とは前回も書いた様に5年に一度正月に天子(周王)の祖霊を天子と諸侯が祭る儀式の事で、元来は周王室だけが行っていた秘儀中の秘儀でござる。孔子はその様な儀式の詳細については天子やごく限られた者だけが知っていればよく、その他の人間が意義と問うなど不遜である、と言いたかったのでござろう。

詭弁と言えば詭弁でござるが、そもそも祭祀などに合理的な意味など無い(宗教的・政治的・心理学的な意味を除いて)と考える現代人からすれば、孔子のこの説はある意味において正しいと思う次第。

八佾第三の英訳をまとめて読みたい御仁は本サイトの孔子の論語 八佾第三を英訳を見て下され。