孔子の論語 衛霊公第十五の七 邦に道有るにも矢の如く、邦に道無きも矢の如し

孔子の論語の翻訳396回目、衛霊公第十五の七でござる。

漢文
子曰、直哉史魚、邦有道如矢、邦無道如矢、君子哉遽伯玉、邦有道則仕、邦無道則可卷而懷之。

書き下し文
子曰わく、直(ちょく)なるかな史魚(しぎょ)。邦(くに)に道有るにも矢の如(ごと)く、邦に道無きも矢の如し。君子なるかな遽伯玉(きょはくぎょく)。邦に道有れば則(すなわ)ち仕(つか)え、邦に道無ければ則ち巻きてこれを懐(ふところ)にすべし。

英訳文
Confucius said, “How faithful Shi Yu was! He served like an arrow both when the country was in order and when it was in disorder. Qu Bo Yu is a gentleman! He served the country when it was in order. He concealed himself when it was in disorder.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「史魚(しぎょ)という人は何と実直なのだろう! 国が治まっている時には矢の様に真っ直ぐに仕え、国が乱れても矢の様に真っ直ぐに仕えた。遽伯玉(きょはくぎょく)は君子であるな! 国が治まっている時には国に仕え、国が乱れたら世を避けて才能を悪用されるのを防いだのだ。」

Translated by へいはちろう

史魚(しぎょ:衛の大夫。史魚は霊公に賢者である遽伯玉を重く用いるよう諫言したが、霊公は彌子瑕を重用して遽伯玉を用いようとしなかった。史魚は臨終の際に息子を呼んで、「私は賢人を薦める事も無能を取り除く事もできなかった。君を正しい道に導けなかった。私が死んでも礼に従った事はせずに死体は窓の下にほうり出しておいてくれ」と言い残した。息子がこの言葉に従い史魚の遺体を窓の下に置いておくと、君主の霊公が弔問に訪れ窓の下の遺体を見てこれを怪しみ、息子にその訳を聞いた。息子が史魚の遺言を霊公に告げると、霊公は愕然として「私は史魚の諌めに従わなかった。これは私の過ちである」と言い、中堂で葬式を行い、賢臣の遽伯玉を抜擢して佞臣の彌子瑕を退けた。孔子はこの話を聞いて「生前に君主を諌める人は大勢いたが、史魚のように死んでも諌めた人はいなかった。」と言ったという。)

遽伯玉(きょはくぎょく:衛の大夫。憲問第十四の二十六では孔子に使いを出して、その人選を孔子に褒められている。)

乱れた国でも忠臣たらんとした史魚、乱れた国を避けていた遽伯玉のそれぞれを褒めているのでござるな。

乱れた世を正そうとした孔子と、乱れた世を避けた老荘家達の対比になんとなく似ているといえば似ているような気もするでござる。

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