孔子の論語 雍也第六の二十二 鬼神を敬してこれを遠ざく、知と謂うべし

孔子の論語の翻訳142回目、雍也第六の二十二でござる。

漢文
樊遅問知、子曰、務民之義、敬鬼神而遠之、可謂知矣、問仁、子曰、仁者先難而後獲、可謂仁矣。

書き下し文
樊遅(はんち)、知を問う。子曰わく、民の義を務め、鬼神(きしん)を敬してこれを遠ざく、知と謂うべし。仁を問う。曰わく、仁者は難(かた)きを先にして獲(と)るを後にす。仁と謂うべし。

英訳文
Pan Chi asked Confucius about wisdom. Confucius replied, “You should fulfill your duty as a human. And you should worship gods but should not rely on gods excessively. It is wisdom.” Pan Chi asked about benevolence. Confucius replied ,”You should do your best for others but should not hope for reward. It is benevolence.”

現代語訳
樊遅(はんち)が “知” とは何かと尋ねました。孔子は、
「人としての義務を果たし、神霊を敬うが決してそれに頼らない、これが “知” というものだ。」
と答えられました。次に “仁” とは何かと尋ね、孔子は、
「人のために尽力して報酬を期待しないこと、これが “仁” というものだ。」
と答えられました。

Translated by へいはちろう

樊遅(はんち:姓は樊、名は須、字は子遅。孔子の弟子の一人。為政第二の五では孔子の御者をしている。)

前半は「人事を尽くして天命を待つ」って感じでござるが、確かに孔子のおっしゃる通りでござる。ただ残念ながら日本人に限った事では無いのでござるが、願掛けや御利益のために神仏に参拝する人がほとんどでござるな。年末になると神社や寺院がTVCMを流して宣伝までするのだから、拙者としては少々疑問を感じざるを得ない所でござる。

「日々の行いを正して、自らに恥じる事が無ければ神仏に祈る必要など無い」というのが拙者の考えでござる。神社や寺院に参拝するのは、その土地の人々が先祖代々、子々孫々に渡って生活し受け継いできた様々な息吹を肌で感じ、自分もまたその一人であると確認するために参拝するのでござるな。実際の拙者は自らを恥じる事ばかりでござるが、志は少なくともこうなのでござる。

後半もまさに”仁”という言葉をよく表しているでござるな。他者のために行う事は当たり前のことしてしなければならず、褒められたり、感謝されたりする事を求めてはならない。などと言うのは今さら陳腐なので止めておくとして、

拙者としては「良い事するのに理由は要らない」と主張したいでござる。他者を思いやる気持ちはあるのに、あと少しの勇気が無かったり、あれこれ考えたりして中々行動に移せない、そんな人は多かろうと思うのでござる。心に優しさがあればこその悩みだと思うのでござるが、良い事するのに理由はいらないと、自らを叱咤激励してどんどん良い事をしていきたいものでござるな。

雍也第六の英訳をまとめて読みたい御仁は本サイトの論語 雍也第六を英訳を見て下され。