孔子の論語 憲問第十四の四十二 君薨ずれば、百官己を総べて以て冢宰に聴くこと三年なり

孔子の論語の翻訳385回目、憲問第十四の四十二でござる。

漢文
子張曰、書云、高宗諒陰三年不言、何謂也、子曰、何必高宗、古之人皆然、君薨、百官總己以聽於冢宰三年。

書き下し文
子張(しちょう)が曰わく、書に云う、高宗(こうそう)、諒陰(りょうあん)三年言(ものい)わずとは、何の謂(い)いぞや。子曰わく、何ぞ必ずしも高宗のみならん。古(いにしえ)の人皆然(しか)り。君薨(こう)ずれば、百官、己を総(す)べて以て冢宰(ちょうさい)に聴くこと三年なり。

英訳文
Zi Zhang asked, “In the Shu Jing, ‘Gao Zhong never spoke for three years in mourning’ Why did not he speak?” Confucius replied, “Not only Gao Zhong. All of the ancient people never spoke in mourning. When a monarch passed away, all officers finished their work and obeyed the regent’s order for three years.”

現代語訳
子張(しちょう)が尋ねました、
「書経には、”殷の高宗(こうそう)は喪に服して三年間言葉を話さなかった。” とあります。どうしてでしょうか?」
孔子は、
「高宗だけではない、昔の人は皆そうしていたのだ。君主が亡くなった時は、すべての家臣は仕事をやり終えて跡継ぎの君が三年喪に服している間は摂政の命に従ったのだ。」

Translated by へいはちろう

子張(しちょう:姓は顓孫、名は師、字は子張。詳細は公冶長第五の十九に。)

殷の高宗(こうそう:武丁とも呼ばれる、殷の22代の帝。高宗は衰えた殷を復興させようと考えていたが、補佐する者がいなかったので、即位してから3年間は自ら政治に口を出さなかった。ある夜に説という名の聖人を夢に見たが、群臣の中にはこのような人物はいなかった。そこで方々に人を遣わしてこの人物を探させると、道を作る労役者の中にこの人物がいた。武丁が話してみると、まことに聖人であったために、傅という姓を与え、傅説と呼んだ。傅説の補佐で殷はまた復興した。)

書経(しょきょう, Shu Jing:政治史・政教を記した中国最古の歴史書。堯舜から夏・殷・周の帝王の言行録を整理した演説集。儒学における五経の一つ。)

現代社会では三年の喪など不可能だと考えがちでござるが、墨子のように当時の人々にとっても非合理的だと思われていたようでござる。

しかし孔子の考えが単純に倫理観からくるものだとしても、君主の代替わりは多くの家臣達にとっても代替わりとなるのでござる(隠居するか隠居させられるのが普通)。そこから生じる利害関係の対立を緩和するためにも3年の移行期間は必要だったのかも知れないでござるな。

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