孔子の論語 憲問第十四の六 禹と稷とは躬ら稼して天下を有つ

孔子の論語の翻訳349回目、憲問第十四の六でござる。

漢文
南宮括問於孔子曰、羿善射、奡盪舟、倶不得其死然、禹稷躬稼而有天下、夫子不答、南宮括出、子曰、君子哉若人、尚徳哉若人。

書き下し文
南宮括(なんきゅうかつ)、孔子に問いて曰わく、羿(げい)は射(しゃ)を善くし、奡(ごう)は舟を盪(うごか)す。倶(とも)に其の死を得ず。禹(う)と稷(しょ く)とは躬(みずか)ら稼(か)して天下を有(たも)つ。夫子(ふうし)答えず。南宮括出(い)ず。子曰わく、君子なるかな、若(かくのごと)き人。徳を尚(たっと)べるかな、若き人。

英訳文
Nan Gong Shi asked, “Yi was good at archery and Ao had strength to move ships on the ground. But they both died an unnatural death. Yu and Ji engaged in agriculture. But they both accomplished great achievements.” Confucius did not replied. After Nan Gong Shi left the room, Confucius said, “He is a gentleman. He values a virtue unconsciously.”

現代語訳
南宮括(なんきゅうかつ)が孔子に尋ねました、
「羿(げい)は弓の名人で、奡(ごう)は陸上で舟を動かすほどの怪力の持ち主でしたが、二人とも普通の死に方はできませんでした。禹(う)と稷(しょく)は自ら田畑を耕すような人物でしたが、天下に偉大な業績を残しました。(どうしてでしょうか?)」
孔子は何も答えられませんでした。南宮括が退出した後、孔子がおっしゃいました。
「彼は人格者であるな。徳の本質を知らず知らずのうちに見抜いている。」

Translated by へいはちろう

南宮括(なんきゅうかつ:姓は南宮、名は括、字は子容。孔子の門弟の一人。公冶長第五の二では慎重さを認められて孔子の兄の娘を嫁にもらったとある。)

羿(げい:古代の弓の名人。姓は夷、名は羿。元は神であったが天に10個の太陽が出現した時に、日照りに苦しむ民衆のために堯の命令で9つの太陽を射落としたと伝えられる。しかしそのせいで太陽の父である天帝にうらまれて神籍を剥奪されて不老不死でなくなってしまった。その後、羿は狩りなどをして過ごしていたが、家僕の逢蒙という者に自らの弓の技を教えた。逢蒙は羿の弓の技を全て吸収した後、「羿を殺してしまえば私が天下一の名人だ」と思うようになり、羿を射殺した。もう一つの伝説として夏王朝の家臣であったが、夏王中康に反乱して天子の位を得たが、家臣の寒促に殺されてしまったと伝えられる。)

(ごう:羿を殺した寒促の子で、陸上で舟を曳く程の怪力の持ち主であった。夏王小康に誅殺された。)

(う:中国の伝説上の聖帝、夏王朝の創始者とされる。詳細は泰伯第八の二十一に。)

(しょく:周族の始祖。周武王の先祖。姜嫄が天帝の足跡を踏んで生んだ。彼は母に三度捨てられたが、そのたびに誰かに助けられたため、育てられた。舜に仕えて人々に農耕と農作物の食べ方、神への捧げ方を教えた。)

王者に必要なのは人徳であって、才能や能力などは家臣がもっていれば良い。というのが儒学の考え方でござるな。

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