孔子の論語 述而第七の二十一 我三人行なえば必ず我が師を得

孔子の論語の翻訳171回目、述而第七の二十一でござる。

漢文
子曰、我三人行、必得我師焉、擇其善者而從之、其不善者改之。

書き下し文
子曰わく、我三人行なえば必ず我が師を得(う)。其の善き者を択びてこれに従う。其の善からざる者にしてこれを改む。

英訳文
Confucius said, “I can always get a teacher if there are three people including me. I can follow a good person. I can correct my errors by seeing a bad person.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「私とあと二人の人物がいたならば、私は必ず師とすべき人を見出すことが出来る。善い人の良いところを見習い、善くない人の悪いところを自分にあてはめて正すのだ。」

Translated by へいはちろう

「人のフリみて我がフリなおせ」とかその様な感じでござろうか、自分を知るためには他人という鏡を用いるのが一番でござるからな、他人の持っている嫌な部分というのは実は自分の内面にあるものなのかも知れないでござる。同じ様なことを里仁第四の十七でもおっしゃっておられるでござるな。

老子も似たような事をおっしゃっているでござる。

「善人は善人では無い者の手本であり、善人では無い者は善人の反省材料である。手本を尊敬せず反省材料を愛さないというのでは、多少の知恵があっても迷うことになるだろう。- 老子 第二十七章

孔子も老子も同じ様に他者を手本として自らを正すことを言いながらも、たどりつく結果が異なるのは面白いところでござる。

孔子は世の人々が他者を手本として自らを正すことによって、世の中が正しい人ばかりとなり世の秩序と平和が保たれると考えられていたのでござる。

老子はといえば、そもそも人を善悪に別けることが間違いで、例え世の人々の道徳感が向上し世の中の秩序と平和を為しえたとしても、人を善悪に別ける事を止めない限り悪人はいなくならない。という考えでござる。

思えば最近のニュースなどでは、世の道徳倫理は廃れて世も末なのだそうでござるが果たして本当にそうなのでござろうか?

儒学では仁とは他者を思いやる気持ちで、義とは悪を憎む気持ちなのでござるが、もとより完璧では無い人間が自ら進んで善を為そうとする時、大事なのは仁でござろうか義でござろうか?仁なくして義あってもそれは独善というものでござる。

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