孔子の論語 公冶長第五の九 回や一を聞きて以て十を知る、賜や一を聞きて以て二を知る

孔子の論語の翻訳101回目、公冶長第五の九でござる。

漢文
子謂子貢曰、女與囘也孰愈、對曰、賜也何敢望囘、囘也聞一以知十、賜也聞一以知二、子曰、弗如也、吾與女弗如也。

書き下し文
子、子貢(しこう)に謂いて曰わく、女(なんじ)と回(かい)と孰(いず)れか愈(まさ)れる。対(こた)えて曰わく、賜(し)や、何ぞ敢(あえ)て回を望まん。回や一を聞きて以て十を知る。賜や一を聞きて以(もっ)て二を知る。子曰わく、如(し)かざるなり。吾(われ)と女と如かざるなり。

英訳文
Confucius asked Zi Gong, “Which of you and Yan Hui is superior?” Zi Gong replied, “I am inferior to Yan Hui. He can understand whole story at the beginning. I can understand only one fifth of the story at the beginning.” Confucius said, “I’m also inferior to Yan Hui. Both you and I are inferior to Yan Hui.”

現代語訳
孔子が子貢(しこう)に尋ねました、
「お前と顔回(がんかい)とどちらが優れているか?」
子貢は、
「私など彼にとても及びません。彼は一を聞いて十を知る事が出来ますが、私は二を知るくらいがせいぜいです。」
と答え、孔子は、
「そのとおり、私もとても顔回には及ばない。私たちはとても彼には及ばないのだ。」
とおっしゃいました。

Translated by へいはちろう

子貢(しこう:姓は端木、名は賜、字は子貢。孔門十哲の一人。弁舌に優れ弟子の中で最も社会的に成功した。魯及び衛の宰相(政務全てを司る要職)を務め、魯が斉から攻め込まれようとした時には斉・呉・越・晋へ赴き各王を説得して当時の覇者であった呉と斉・晋・越を戦わせた。結果呉は滅び越が覇者となり魯は戦に巻き込まれなかった。史記の貨殖列伝に名を残すほどの商才の持ち主。)

顔回(がんかい:姓は顔、名は回、字は子淵。孔門十哲の一人。出世や名誉を求めず質素な暮らしに甘んじ、ひたすらに孔子の教えを学び実践する生活を送った。孔子は弟子の中で最も顔回を評価していたが、若くして病で死亡する。孔子は彼の死を聞いたとき、「あぁ、天は我を滅ぼせり。」と嘆いたと言う。)

さて「一を聞いて十を知る」の元となった今回の文でござるが、孔子の弟子の中でもこの二人の対比はとても面白いので少し思考を膨らませてみようと思うでござる。

子貢は上記の通り、弁舌に優れた異才でござる。孔子の名が大きすぎるため過小評価されがちでござるが、縦横家顔負けの大活躍で呉越の戦い(呉越同舟・臥薪嘗胆などの原典)に大きな役割を演じているのでござる。当時の孔子及び儒学の名声は子貢の活躍に負う所が大きかったとの評価もあるくらいでござる。しかしそれだけの才能を持ちながら弁舌が巧みすぎる点や実利を得る事に巧み過ぎる点が孔子にとっては残念であったのでござろう。

顔回は上記の通り、ひたすらに孔子の教えの実践を求めた求道者でござる。儒学を興隆させて乱れた世を救わんと重い使命を自らに課して、時には現実社会との摩擦に苦悩していた孔子にとっては、顔回のあり様は理想の人間像に見えた事でござろう。出世や富を求めず多くを語らず、質素な暮らしでひたすらに学問に徹する姿はある意味において老荘思想にも通じる部分があり、既に学問や思想を超える存在でござる。

つまり子貢は儒学の現実社会における有益性を表しており、顔回は儒学の思想的清潔さを代表していて儒学をささえる車の両輪みたいなものでござる。子貢的な人間ばかりでは世の中は実利を求める者ばかりになるし、顔回的な人間ばかりでは世の中に何も益する所が無い。ここへ来てあらためて孔子の偉大さがよく解るのでござる。

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