学問のすすめ 初編 端書

学問のすすめの翻訳、初編 端書でござる。

現代語訳

 このたび我々の故郷である中津に学校を開くにあたり、古い付き合いの同郷の友人のために学問の目的を記して一冊にまとめたのだが、ある人がこれを見て、「この本は中津の人だけに見せるのではなく、広く世間の人々に見てもらった方がより世のためになる」と勧めてくれたので、慶應義塾にあった活字版によって印刷し、同じ志を持つ人々にも見てもらう事にした。

明治四年(1871年)十二月  
福沢諭吉         
小幡篤次郎記       

英訳文

When we established a school in our hometown Nakatsu, we wrote the purpose of learning for our old friends. Someone read it and proposed, “You should publish this booklet not only to the people of Nakatsu, but also to the Japanese public. If so, it will benefit more people.” Thus we printed this book with a letterpress printing machine at Keio Gijuku, for the people who have the same ambition with us.

December, 1871      
Fukuzawa Yukichi   
Obata Tokujirō       

Translated by へいはちろう

この端書まで翻訳する必要があったのかどうかは解らないでござるが、この機会に「学問のすすめ」が発刊された時代背景や福沢諭吉の略歴を簡単にまとめたいと思うでござる。ご覧のとおり学問のすすめの初編が書かれたのは明治4年(1871年)、発刊されたのは翌年の明治5年の事でござる。福沢諭吉は天保5年(1835年)の生まれでござるから、当時は37歳でござるな。

豊前国(大分県)中津藩の下級藩士の次男として生まれた福沢は、当時の武士の子弟の常として幼い頃から漢学を学び一通りの漢籍は修めたそうでござる。安政元年(1854年、19歳)には長崎に遊学して蘭学を学び、その後大阪へ移って安政4年には蘭学者・緒方洪庵の塾で最年少の塾頭になっているでござる。その才を買われて安政5年には江戸へ移り、江戸の中津藩邸に開かれていた蘭学塾の講師を務めるまでに至ったものの、安政6年、日米修好通商条約により外国人居留地となった横浜へ見物へ出かけた福沢はそこでオランダ語がまったく通用しない事に衝撃を受け、その後は英蘭辞書などを頼りに独学で英語の勉強を開始するのでござる。英語学習者としては、この時の福沢の英語に対する執念には感嘆を禁じ得ないでござるな。

その安政6年(1859年、24歳)の冬、日米修好通商条約の批准使節の護衛としてアメリカへ行く咸臨丸の艦長・木村摂津守の従者として渡米した福沢は、様々な日本との文化の違いに衝撃を受け帰国するでござる。そして文久2年(1862年)には幕府の翻訳方として渡欧、慶応2年(1866年、31歳)には見聞した西洋の文化制度を紹介した「西洋事情」の初編3冊を刊行しているでござる。

そして明治維新でござる。維新前に幕府の旗本となっていた福沢は、当初攘夷派の急先鋒と目していた新政府には良い感情をもっていなかったものの、新政府が予想に反して開明的な施策をするにつけ態度を軟化し、特に廃藩置県については高い評価をしているでござる。しかし再三の出仕の勧めは断り、あくまで在野の身分のまま教育・啓蒙活動を続け、明治4年(1871年)に故郷の中津市に旧藩主の協力を得て「中津市学校」を開設するにあたり、その初代校長となる同郷の小幡篤次郎と共に書いたのが、この学問のすすめの初編でござるな。

なおこの小幡篤次郎という人物は天保13年(1842年)の生まれでござるから福沢より7歳年下でござる。中津藩の家老・小幡氏の血筋に生まれ、藩校・進脩館にて漢学を学んでいたところ、元治元年(1864年)に福沢の勧めで江戸に出て英学を学び、慶應2年(1866年)から4年まで福沢の塾で塾長を務めているでござる (“慶應義塾”の呼称は慶應4年から)。その後貴族院議員などを経て明治23年(1890年)に再び慶應義塾塾長となり、明治34年(1901年)には社頭となって、福沢に次ぐ慶應義塾の中心人物として活躍しているでござるよ。

学問のすすめの原文・現代語訳・英訳文をまとめて読みたい方は本サイトの 学問のすすめを英訳 をご覧くだされ。