孔子の論語 雍也第六の二十四 魯、一変せば道に至らん

孔子の論語の翻訳144回目、雍也第六の二十四でござる。

漢文
子曰、齊一變至於魯、魯一變至於道。

書き下し文
子曰わく、斉、一変(いっぺん)せば魯に至らん。魯、一変せば道に至らん。

英訳文
Confucius said, “Qi can become a civilized country like Lu. Lu can become an ideal country of moral politics.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「斉の国はちょっと変われば魯の様な文化国家となる事が出来る。魯の国はちょっと変われば道徳政治の理想国家となることが出来る。」

Translated by へいはちろう

(せい:孔子の時代の大国、春秋五覇の一つ。始祖は太公望呂尚(周建国の功労者、名軍師として名高い)、爵位は侯爵。海水から塩を作ったり鉄を生産して大いに栄えた。15代の桓公の時代に名宰相、管仲を得て春秋最初の覇者となるが、桓公の死後は後継者争いが絶えず国力が衰微する。孔子の時代に斉のもう一人の名宰相、晏嬰を得てようやく安定を取り戻す。春秋時代を通して大国でありつづけるが、主君である斉公の権威は衰え続け、家臣の田和によって政治の実権を奪われ、BC386年にはとうとう周王朝が田氏を斉公と認めて名実共に斉の君主は田氏となる。これ以後の斉を区別して田斉とも呼ぶ。)

(ろ:孔子の生国。始祖は周公旦(周の開祖である武王の弟、姫旦)、爵位は侯爵。何よりも孔子の出現によって中国の文化・思想史に果たした役割は大きいが、軍事的には周囲の斉・晋・楚などの強国に翻弄される小国であった。国内的には15代の桓公(斉の桓公とは別人)から分家した三桓氏と呼ばれる御三家によって実質的に支配されており、魯公の権威は低かった。春秋時代にはまだ諸侯が周王朝を重んじていたため魯は細々と生きながらえていたが、戦国時代に入ってBC256年に周が秦によって滅ぼされると、BC249年に楚によって魯は滅ぼされた。)

周王朝の名族で周公の礼制などを受け継ぐ魯は確かに当時随一の文化国家であった事は確かでござる。しかし逆を返せば戦乱の風が吹き始めていた当時の中国大陸における魯は文化国家として以外に生き残る道は無く、孔子も君臣の身分秩序を正す事によって平和は保たれると説いているでござる。諸侯が周王朝を敬えば周の名族である魯は安泰でござるからな。

春秋・戦国時代を通して、家臣にいつ謀反を起こされるかと不安に駆られていた中原の諸侯達は、孔子の言う身分秩序を一部受け入れる事によって国権を保とうとするのでござるが、当時の新興国であり周辺蛮族とみなされていた秦や楚は当然その身分秩序に対しては反発し、孔子の言う古代の聖王の様な道徳政治では無く、当時はまだ新しい政治思想であった法家の思想(君主による中央集権制)によって国権を保とうとしたのでござる。

結果として呉起による政治改革が失敗した楚を最後に、その他の諸侯も法家の怪物的実践者であった始皇帝によってことごとく滅ぼされ、中国大陸は初の統一を成し遂げるのでござる。

しかし「君主こそが法であり、法こそが道徳である」という極端な独裁的政治を民衆が受け入れるはずがなく、秦はわずか15年で滅んで漢が次に中国大陸を統一するのでござる。

漢は建国当初は周の様な封建制を布いていたものの、呂后の専横や呉楚七国の乱などを経て次第に秦の様な中央集権制が確立される。しかし秦の様な極端な政治は行わず、7代皇帝の武帝の時代になって五経博士が置かれ、儒学が漢の官学となると秦の時代に徹底的に弾圧された儒学が一気に隆盛を極めるのでござる。

後は儒学が隆盛したり腐敗したりを繰り返して、時代によって批判されたり見直されたりしているでござる。諸行無常でござるな。

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