孔子の論語 述而第七の三十三 聖と仁との若きは、則ち吾豈に敢えてせんや

孔子の論語の翻訳183回目、述而第七の三十三でござる。

漢文
子曰、若聖與仁、則吾豈敢、抑爲之不厭、誨人不倦、則可謂云爾已矣、公西華曰、正唯弟子不能學也。

書き下し文
子曰わく、聖と仁との若(ごと)きは、則ち吾豈(あ)に敢えてせんや。抑々(そもそも)これを為して厭(いと)わず、人を誨(おし)えて倦(う)まずとは、則ち謂うべきのみ。公西華(こうせいか)が曰わく、正に唯だ弟子学ぶこと能わざるなり。

英訳文
Confucius said, “I myself also cannot be a sage or a benevolent person. I can only aspire after these way and teach people eagerly.” Gong Xi Hua said, “That’s really the thing we cannot.”

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「私自身、聖人や仁者の様なことはとても出来ることでは無い。私に出来るのはせいぜいそれらの道を追い求めて、飽きることなく人々に教えることだけだ。」
すると公西華(こうせいか)が、
「それこそまさに我ら弟子たちにはとても真似できぬことなのです。」
と言いました。

Translated by へいはちろう

公西華(こうせいか:姓は公西、名は赤、字は子華。孔子の弟子の一人。孔子よりも42歳若く、裕福な家の出で礼法などに明るく公冶長第五の八では外交官に相応しいと孔子に評され実際に外交官になった。)

公西華にとって42歳も年が離れ自分の得意分野で時代の頂点に立つ孔子は、尊敬の対象というよりは崇拝の対象になっていたかも知れないでござるな。

孔子が偉人だということには疑いもなく今回のお言葉も立派でござるが、孔子を神聖視しすぎるとかえって孔子が本当に言いたかったことから遠ざかってしまうことになる。才能という言葉は時に人間の努力を軽視するものでござる。

公西華の返答も中々に才幹を感じさせるものでござるが、それだけに「とても真似できぬ」と言われて孔子が喜んだとは拙者には思えないでござるな。

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