孔子の論語 憲問第十四の二十二 陳成子、簡公を弑す

孔子の論語の翻訳365回目、憲問第十四の二十二でござる。

漢文
陳成子弑簡公、孔子沐浴而朝、告於哀公曰、陳恆弑其君、請討之、公曰、告夫三子、孔子曰、以吾從大夫之後、不敢不告也、君曰、告夫三子者、之三子告、不可、孔子曰、以吾從大夫之後、不敢不告也。

書き下し文
陳成子(ちんせいし)、簡公(かんこう)を弑(しい)す。孔子、沐浴して朝(ちょう)し、哀公(あいこう)に告げて曰わく、陳恒(ちんこう)、其の君を弑す。請う、これを討たん。 公曰わく、夫(か)の三子(さんし)に告げよ。孔子曰わく、吾(われ)大夫の後(しりえ)に従えるを以て、敢(あえ)て告げずんばあらざるなり。君曰わく、夫の三子者(さんししゃ)に告げよと。三子に之(ゆ)きて告ぐ。可(き)かず。孔子曰わく、吾大夫の後に従えるを以て、敢て告げずんばあらざるなり。

英訳文
Chen Cheng Zi murdered marquis Jian of Qi. Confucius bathed and went to the palace and said to marquis Ai of Lu, “Chen Heng murdered his lord. Let us punish him, Your Excellency.” Marquis Ai replied, “Talk to the heads of three families.” Confucius left the palace and said, “As duty of a minister, I dared tell it to marquis Ai. But he said, ‘Talk to the heads of three families.'” Confucius proposed punishing Chen Heng to the three ministers. But they denied. Confucius said, “As duty of a minister, I dared tell it.”

現代語訳
陳成子(ちんせいし)が主君である斉の簡公(かんこう)を殺害しました。
孔子は沐浴した後に宮殿に上がって魯の哀公(あいこう)に言いました、
「陳恒(ちんこう:陳成子の事)が主君を殺害しました。どうかこの無道者をお討ち取り下さい。」
哀公は、
「御三家の当主たちに聞け。」
と答えました。孔子は退出した後でつぶやいて言いました、
「大臣の末席にいる者として、哀公に申し上げずにはいられなかったのだ。しかし “御三家の当主に聞け” とおっしゃるとは。」
そして御三家の当主たちに会って陳成子の討伐を進言しましたが、彼らは却下しました。
孔子は、
「大臣の末席にいる者として、大義をもって正論を言わずにはいられなかったのだ。」
とおっしゃいました。

Translated by へいはちろう

陳成子・陳恒(ちんせいし・ちんこう:斉の宰相、田常の事。後の田氏斉の先祖。姓は陳または田、名は恒(後に漢の文帝・劉恒に遠慮して常と表記されるようになる)、成子は諡号。陳は田氏の出身国。田氏は領民に米を施す時には大きな枡ではかり、税を取り立てる時には小さな枡ではかって斉の民衆からの支持を得た。政敵を粛清しながらも民衆からの支持は篤く、斉の政治の実権を握った。簡公は田常の専横を排そうとしたが、逆に捕らえられて殺されてしまった。結果、斉は完全に田氏の支配するところとなり、BC386年に周の安王によって正式に田氏が斉公に封じられて太公望の血統は滅び、斉は田氏斉となる。)

斉の簡公(かんこう:在位BC484-BC481年。田常の政敵である監止を用いて田氏の専横を排そうとしたが監止ともども田常に殺害される。先代の悼公も田常の父の田乞の政敵である鮑牧に殺害されている。)

簡公の運命を思えば、哀公はのん気だなと思わざるを得ないでござるな。もしくは既に臆していたのでござろうか。

ただし上述の通り、陳成子=田常は野心家とはいえ無能とは言えず、魯が大国斉に討伐軍を差し向けても勝てる見込みはなかったでござろう。それが解るから御三家が拒否するのは当然として、孔子が魯公の行く末を案じるのもこれまた当然でござるな。

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