孔子の論語 憲問第十四の十七 桓公諸侯を九合して、兵車を以てせざるは管仲の力なり

孔子の論語の翻訳360回目、憲問第十四の十七でござる。

漢文
子路曰、桓公殺公子糾、召忽死之、管仲不死、曰未仁乎、子曰、桓公九合諸侯、不以兵車、管仲之力也、如其仁、如其仁。

書き下し文
子路(しろ)が曰わく、桓公(かんこう)、公子糾(こうしきゅう)を殺す。召忽(しょうこつ)これに死し、管仲(かんちゅう)は死せず。曰わく、未(いま)だ仁ならざるか。子曰わく、桓公、諸侯を九合(きゅうごう)して、兵車(へいしゃ)を以(もっ)てせざるは、管仲の力なり。其の仁に如(し)かんや、其の仁に如かんや。

英訳文
Zi Lu asked, “When Marquis Huan killed young lord Jiu, Zhao Hu followed his master to the grave. But Guan Zhong did not. He was not benevolent, was he?” Confucius replied, “When Marquis Huan called feudal lords together, he did not use force. It was thanks to Guan Zhong. Who can be more benevolent than him? Who can be more benevolent than him?”

現代語訳
子路(しろ)が尋ねました、
「斉の桓公が政敵であった公子糾(こうしきゅう)を殺した時、召忽(しょうこつ)は共に殉死しましたが管仲(かんちゅう)は死にませんでした。彼は仁者とは言えませんね。」
孔子は、
「桓公が諸侯を集めて会盟を開いた時に、桓公は武力を用いなかった。これは管仲の功績で、誰がその仁に及ぶ事ができようか。誰がその仁に及ぶ事ができようか。」
と答えられました。

Translated by へいはちろう

子路(しろ:季路とも言う。姓は仲、名は由、字は子路。詳細は公冶長第五の七に。)

斉の桓公(かんこう:在位BC685-BC643年、春秋五覇の一人。詳細は憲問第十四の十六に。)

公子糾(こうしきゅう:桓公の兄。斉の後継者騒動の際に魯の国に亡命していた。同様に莒に亡命していた小白(後の桓公)と先に帰国した方が斉公になれるという時に、当時は公子糾の家臣であった管仲は小白の暗殺を試みる。管仲の放った矢は小白の腰止に当たったのだが、小白は死んだふりをした。安心した公子糾と管仲はゆっくり斉に帰国したが、その時には既に桓公が即位していた。公子糾は再度魯国に亡命したが、桓公は魯に公子糾の首を要求して魯はこれに応じた。)

召忽(しょうこつ:公子糾の家臣。公子糾と共に魯で殉死した。)

管仲(かんちゅう:春秋時代を代表する名宰相。斉公の位についた桓公は初め管仲に命を狙われたことを怒り管仲も殺そうとしていた。しかし腹心で管仲の親友でもある鮑叔牙に「公が斉の君主であるだけでよいならば、この私でも宰相が務まりましょう。しかし公が天下の覇者になりたいと思われるならば宰相は管仲でなければなりません」と言われ、管仲を魯から引き取り宰相とした。八佾第三の二十二では「器の小さい人間」と孔子に言われている。)

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