十七条憲法に現代語訳と解説を追加

過去に英語訳をした十七条憲法に現代語訳と解説を追加したでござる。

もとよりこのブログは拙者の英語学習のために運営されており、そのために色々な書物を英訳しているのでござるが、2007年の4月から5月にかけて英訳したのがこの十七条憲法でござる。しかしその後、論語や老子を英訳するにあたって現代語訳や簡単な解説を掲載するようになると、英語とはまったく関係のない方でこのブログを訪れる方も増えてきたみたいなので、今回あらためて以前英訳した十七条憲法に現代語訳と簡単な解説を追加した次第でござる。

現代語訳については老子の時と同じく、共感をキーワードにできるだけ解りやすい表現を心がけ、解説については完全なる拙者の独断と偏見によって個人的に思うところを遠慮なく書かせていただいたでござる。十七条憲法について真剣に学びたいという御仁はもっとちゃんとした書物や解説サイトにて学ばれるがよろしいでござろう。

もともと掲載されていた原文・書き下し文・英訳文についても若干の修正を施してあり、振り返ってみるとほぼ全文を書き直したような気もするでござるが、それだけ拙者が成長したのかそれとも頭が固くなったのかは解らないでござるな。

なお十七条憲法の英訳・現代語訳をまとめて読みたいという御仁は、聖徳太子の十七条憲法を英訳というページにまとめてあるので、こちらを見ると早いでござろう。

次に翻訳する書物はずいぶんと以前から決まっているのでござるが、翻訳の開始はいつになるのか今はちょっと解らないでござる。現在翻訳にあたって資料を読み漁っている段階なのでござるが、ひとつひとつの章が少し長いのでどのような体裁で掲載しようか悩んでいる所でござる。

翻訳を始めればしばらくそれにかかりっきりになってしまうと思うので、それまで何かあったらまた報告させていただくでござる。

老子道徳経のオンライン図書

老子道徳経の翻訳を終えてしばらくたった先日、明かりの本という、ブラウザを使用して読めるオンライン図書を無料公開しているサイトの運営者様から、拙者の翻訳した老子道徳経の訳文をオンライン図書として公開させて欲しいという依頼があったのでござる。

「無料で良書を紹介する」というのが運営方針らしく、拙者の訳文が良書に値するか否かはともかくそのような活動はぜひ応援したい、という事で拙訳を提供させていただいた次第でござる。

以下がその老子道徳経のオンライン図書でござる、興味のある方は見てくだされ。
http://akarinohon.com/basic/rousi_english.html (横書き)
http://akarinohon.com/basic/rousi_heihatiro.html (縦書き+書き下し文つき)

また上記サイトでは他にも色々と読み応えのありそうな良書がオンラインで読めるようなので、ブラウザのお気に入りなどに登録しておくと良いでござろう。

しかし色々な場面で日本人のモラルの低下が安易に叫ばれる昨今、なかなかどうして志の高い御仁というのはおられるものでござるな。拙者も世間の悪い部分ばかりを見るのではなく、こういう御仁を見習って高い志を持つようにしたいものでござる。

老子の翻訳を終えて

さて長かった老子道徳経の翻訳もようやく終わり、ひさびさにたわごとを書くことができるようになったでござる。

老子の翻訳を始めたのが 2009年の9月末、終了したのが 2011年6月始め。いくらなんでも 1年半以上は時間をかけすぎだと思うのでござるが、途中から今日の英単語の方の更新に力をいれるようになったり、拙者の頭の中に住んでいた老子が旅にでかけてしまって翻訳がめんどくさくなってしまったりと、大きな間があいてしまったことが原因でござるな。

なにしろ老子の内容を真剣に考えれば考えるほど、老子の翻訳とか解説とか自分のやっていることがちっぽけに思えてきてしまうから困りものでござった。以前にも書いたでござるが、哲学とか思想とかを語るにはある程度の無意識下にあるストレスが必要なのだと思う次第でござる。それが老子のおかげで自分が成長したのかそれとも馬鹿になったのか、難しいことを考えようとする気がまったく起きない。正月ボケが年中続いているような状態となってしまったのでござる。

ただこれも前に書いたでござるが、こういう状態こそ拙者にとっては理想に近く、その状態から無理にやる気を出して翻訳を続けようとも思ってはいなかったでござる。何人かコメントを残してくださった御仁もおられて少々気が咎めたのでござるが、自分のペースで翻訳をさせていただいた次第でござる。

今後このブログをどうしていくかについてでござるが、しばらくは不定期に英語に関係したりしなかったりすることを気ままに書いていくつもりでござる。ただ前述のとおりストレスの欠けた拙者にはとくに語ることもないので、もしかしたらまったく更新しなかったりするかもでござる。

それとは別に過去に翻訳した十七条憲法に現代語訳を付け足す作業もしようと思っているでござる。基本的にこのブログでの翻訳は拙者の英語学習のために行っているのでござるが、十七条憲法のときには「本当に」自分の英語学習のことしか考えていなかったために現代語訳をつけていないのでござる。しかしその後で論語や老子を翻訳するにあたって現代語訳をつけるようになると、英語関係なしにこのブログを訪れる方も増えたみたいなので、そういう方々のためにも現代語訳をつけるべきと思い至った次第でござる。

そしてしばらく時間をおいて良い具合にストレスも溜まってきて、色々と真面目なことも語りたくなったら、今度は日本の古典の翻訳に挑戦するつもりでござる。具体的に何を翻訳するかはまだ秘密でござるが、拙者の英語学習にひとつの区切りをつける翻訳となるでござろう。あの時の拙者に今と同じくらいの英語力があれば…

老子 第八十一章 信言は美ならず、美言は信ならず

老子の翻訳、第八十一章でござる。

原文
信言不美、美言不信。善者不辯、辯者不善。知者不博、博者不知。聖人不積。既以爲人己愈有、既以與人己愈多。天之道利而不害、聖人之道爲而不爭。

書き下し文
信言(しんげん)は美ならず、美言(びげん)は信ならず。善なる者は弁(べん)ぜず、弁ずる者は善ならず。知る者は博(ひろ)からず、博き者は知らず。聖人は積まず。既(ことごと)く以(も)って人の為にして己(おのれ)愈々(いよいよ)有し、既く以って人に与えて己愈々多し。天の道は利して而(しか)して害せず、聖人の道は為(な)して而して争わず。

英訳文
Reliable words are plain, and decorated words are unreliable. Good people are reticent, and talkative people are not good. Wise people are not erudite, and erudite people are not wise. The saint who knows “the way” does not save up. He acts for others and gets important things. He gives to others and gets richness of the heart. Heaven’s way benefits all things without harming them. The saint accomplishes everything without competing with others.

現代語訳
信頼に足る言葉には飾り気がなく、耳障りの良い言葉は信頼するに足りない。善人とは多くを語らないもので、おしゃべりな人は善人とは言えない。本当に知恵がある人は物知りでは無いし、物知りな人に大した知恵は無い。そうして「道」を知った聖人は蓄えをせず、人々のために行動して大切なものを手に入れ、人々に何もかも与えてかえって心は豊かになる。天は万物を潤しながらも害を与える事はなく、聖人は他人と争わずに物事を成し遂げる。

Translated by へいはちろう

老子全81章の最後でござる。言葉に頼らず、知識に頼らず、人のために行動して、物質的な豊かさよりも心の豊かさを優先して他人と争うことがない。そんな人間としてのあり方を勧めているのでござろう。

最終章ということで、ここで自らの反省としてこの言葉を受け止めてみる。

拙者は文才があるとは思わないが、弁才は昔から自分でも嫌になるほどあり、それこそ一度口を開けば何時間でもしゃべっていられる人間でござる。またそれほど頭が良いというわけでもないのに、あれこれと無駄な知識ばかり持っており、なにより意味なく知識を貯めこむ事が大好きでござる。人の役に立つ人間になりたいと思わないわけでもないが、実際には胸をはって人の役に立ったと世間に公言できるほどに立派な事はしたことがないでござる。物質的な豊かさよりも心の豊かさを大事にしたいと思ってはいるが、平均的な日本人の暮らしを享受しており、世の中に大勢おられる貧しい人たちと同じ暮らしに耐えられるかと問われれば自信は無いでござる。またできる限り他人に対して腹を立てずに笑顔で接したいと思っているが、それでも他人に腹を立ててしまうことはあるし、色々な立場や考え方が世の中にはあると頭で解っていながら、心のどこかで自分が正しいと思い込む傲慢さがあるかも知れないでござる。

要するにどこにでもいる多少頭でっかちな凡人という事でござるな。偉そうに老子の翻訳と解説をしていながら、このていたらくで申し訳ないでござるが、どうしてそんな拙者が老子の言葉に惹かれるのか。

それは老子の思想が「凡人のための思想」だと拙者は思うからでござる。孔子の思想やその他多くの思想が、立派な人間になる事を目指しているのに対し、老子は誰もが本来もっていたはずの真心を取り戻せと説く。立派な人間としての教養もいらず、礼儀作法を身につける必要もない。他人を区別しなければ、自分が区別されることもない。他人に対して自分の理想を押し付けなければ、ありのままの自分に満足する事ができる。

別に悪いことをしても良いなどと言っているわけではなく、善人になりきれぬ凡人に、凡人なりの考え方というものを教えてくれているのでござる。故に拙者は難解だと言われる老子を、共感という言葉をテーマにできるだけ簡単な言葉で理解できるよう翻訳させていただいた次第でござる。

ただしこれはあくまで拙者の解釈でござるから、これを機に老子に興味を持った方はぜひ他の老子の解説書などを読んで自分なりの解釈を考えてもらいたいし、老子以外の書物にも興味を持ってもらいたい。すべての人が拙者と同じ共感を共有する必要もないし、むしろそういう御仁の方が少ないだろうと思っているくらいでござる。

基本的には拙者の英語学習と自己満足のために運営されているこのブログ。しかし偶然に訪れた方々の内のわずか何人かにでもなんらかの形でお役に立てればそれに勝る喜びは無いでござる。

老子の英訳をまとめて読みたい方は本サイトの老子道徳経を英訳をご覧くだされ。

老子 第八十章 小国寡民

老子の翻訳、第八十章でござる。

原文
小國寡民。使有什伯之器而不用、使民重死而不遠徙、雖有舟輿、無所乗之、雖有甲兵、無所陳之。使人復結繩而用之、甘其食、美其服、安其居、樂其俗、鄰國相望、雞犬之聲相聞、民至老死、不相往來。

書き下し文
小国寡民(しょうこくかみん)。什伯(じゅうはく)の器(き)有るも而(しか)も用いざらしめ、民をして死を重んじて而して遠く徙(うつ)らざらしめば、舟輿(しゅうよ)有りと雖(いえど)も、これに乗る所無く、甲兵(こうへい)有りと雖も、これを陳(つら)ぬる所無なからん。人をして復(ま)た縄を結びて而してこれを用いしめ、その食を甘(うま)しとし、その服を美とし、その居に安んじ、その俗を楽しましめば、隣国(りんごく)相い望み、雞犬(けいけん)の声相い聞こゆるも、民は老死に至るまで、相い往来(おうらい)せざらん。

英訳文
A small country with a small population: Even though there are convenient tools, people do not use them. They value their lives and do not travel. Even though there are ships and vehicles, people do not ride on them. Even though there are arms and armors, people do not wear them. They enjoy old-fashioned life. They enjoy their meals, clothes, and houses. Because they enjoy their life, even if they can see a neighboring country and hear its voice of domestic animals, they do not come and go each others until they get old and die. It is a utopia in the human world.

現代語訳
人口の少ない小さな国がある。便利な道具があっても誰も使わず、人々は命を大切にして危険な遠出をしたりせず、船や車はあるが誰も乗らず、鎧や武器はあるが誰も身に着けない。人々は昔ながらの素朴な暮らしを送り、その日の食事を美味しく食べ、着ている衣服を立派だと思い、自分の住居で安らかに暮らす。そんな暮らしを楽しんでいるので、隣の国がすぐ近くに見えて、その鶏や犬の鳴き声が聞こえるほどであっても、人々は老いて死ぬまで、お互いの国を行き交う事もない。これこそ人の世の理想郷である。

Translated by へいはちろう

「井の中の蛙、大海を知らず」ということわざがある。この言葉は荘子の秋水篇にある言葉を原典としていて、現在では「狭い知識にとらわれずに大きな視野を持つべきだ」という様な教訓として使われるのでござるが、井戸の中だけで十分に幸福であった蛙が海の広さを知った所で一体どうなるというのでござろうか。蛙は海で生活はできないのだし、結局のところ満ち足りていたはずの井戸の中の暮らしが前より色あせるだけでござる。同じようなことを思った人がいたのか、いつのまにかこの言葉の後ろに「されど空の高さを知る」と原典には無い言葉が付け足される事もしばしばでござるな。

老子の生きた時代は戦乱の時代でござるから、小国は大国にのみこまれ、その大国も生き残りをかけて富国強兵に努めなければならない時代でござった。なにやらグローバル化がすすみ国家間の経済競争が熾烈を極める昨今の世界情勢と似ているような気がしないでもないでござるが、そこで単なる理想だと決め付けて思考を止めてしまうこともないでござろう。なにより老子の言うような理想郷に近い生活を実現できるのが、互いの価値観の相違を認めるはずの自由民主国家よりも、愚民政策をとる全体主義の独裁国家だなんてことになったらあまりにも悔しい。国家全体のあり方としては無理でも、足るを知る生活を求める人が自分の暮らし方を選択する自由はあってしかるべきでござろう。

ちなみに中国で理想郷を指す言葉として有名な「桃源郷」というのは、六朝時代に活躍した詩人・陶淵明(とうえんめい)の桃花源記という詩に登場する架空の村が出典でござる。陶淵明は官を辞して晴耕雨読の生活を続けるなかで玄学的な詩を書き綴り、桃花源記も老子の思想に影響を受けて書かれたといわれているでござる。

老子の英訳をまとめて読みたい方は本サイトの老子道徳経を英訳をご覧くだされ。